美の特攻隊

てのひら小説

霧の航海

 

あらくれ者で知られたジャン・ジャックは額に深く刻まれた傷痕を潮風にさらすよう舳先に陣取っては、陸地を求めるまなざしなどあり得ぬといった風格を誰かれに誇示するわけでもなく、ひたすら想い出の向こうへ櫂を漕ぎ出すふうにして前方を見据えていた。
その眼光がいつもより波しぶきをとらえていると感じた手下のひとりは、ジャンの影を踏むことさえ畏れたのか、一刻も早く積み荷が目的の入り江へと送られることを願った。

不穏なうわさが海面にただよう霧よりさきに船内へ導かれただけとは言い難い、なぜなら出航まえから彼の神経はささくれ立ち、港で行き合った顔なじみの言を借りると、まるで死神にとりつかれたような昏い眼をしていたからで、つね日頃の剛毅なうちにもはにかみを忍ばせた心安さがまったく失せていたのである。
たとえ嵐のさなかだろうが臆することなく錨をあげ、依頼主の要件に応えようとする姿勢とは別種のこわばりが相貌に滲んでおり、それはどこからともなく囁かれだした積み荷に関する奇怪な風聞と解け合い、船員手下はおろか、港に面した酒場の女やあたりをうろつく野良猫の目つきまで、眠たげな様子に見せかけた物怖じを宿していた。

船出まえの晩には、この手の巷説をもっともらしく語りだす老人が酒場の片隅から、鈍重なそれでいて厳粛な物腰でジャン・ジャックのそばまで歩み寄り、
「あんた、悪いことはいわん。積み荷を届けてはいけないよ」
相手の返答を待つ間もなく、こう続けざまに言い切った。
「が、引き受けた仕事なら仕方あるまいて、捨て置くことは出来んしなあ。なら事故に見せかけ海の底に沈めてしまうのじゃな」

「それはいかなる理由で」
平静を保った面持ちのジャンはおおきく首をかしげて見せたのだが、一緒に落ちた目線は自らの影を凝視するはめになってしまい舌打ちをした。
「おまえさんの胸に聞いてみればええ」
石像の蓋が開かれている、皆が危ぶんだ秘密がまことしやかに船底から這い上がってきたとき、すでにジャンの胸中にはある決断がなされていた。
老人からの提言を聞き入れ、海原に浮かんだ鬼胎のなすままに、船員らの周章狼狽を鎮めるため事なかれで済まそうとしているのではなく、その逆を演じる覚悟をしたのであった。


蹌踉としてもよりに寄港する素振りをしめし、だが入港することは認めず、北極星に祈りを捧げてから小島の陰に碇泊した。

「よく聞くんだ、皆のもの、これより検分するのは言うまでもないだろう。誰が積み荷を解いたのか知らないが、石像の蓋だと、ふん、そんなでたらめはあり得ないってことよ。鍵はこの通り、肌身離さずにぎっておる」
一同のどよめきを尻目にジャン・ジャックはふたりの手下をその背後に、そして舵取り以外の全員を船倉に引き入れた。
「見ろ、扉はしっかり閉まっているじゃないか」
高らかな笑い声は特別庫の鍵穴を突き抜けそうな勢いで、船底の揺らぎを支えているようにさえ感じる。
「はい、誰も開けたりはしないでしょう」
うしろのひとりがそう呟いた。
ジャンは不審な表情をつくり
「おまえもそう思うのか」と、もう一名に尋ねた。
「あなたの他に入った者はおりません」
きっぱり、そう答える。
血の気が急激に全身から引いてゆく。
その視線がたどるさきをよもや失念していたとは、、、言葉にする気力があったのではない、うわ言がついて出ただけであった。
「あとの奴らはどうした、みんなどこへ消えてしまったんだ。どうして検証に立ち合わん」

ジャン・ジャックの筆跡らしき航海日誌にはこう記されていた。
「私はまどろみながらとても古い書物を読んでいた」