美の特攻隊

てのひら小説

夜の河〜20

山腹をきわどく縫いながら列車は走行してゆく。
時折、山林が切り開かれたところから下界を見おろす場面が現れるのは、かなり高所であることを実感させ、そうかと思うと次の瞬間には漆黒のトンネルへと吸いこまれてしまい、またもや車窓に浮かび出る自身の半身と目が会うのも次第に慣れてくると、記憶と想念は混濁しはじめ、これが幼子であったらきっと喜びと希望にあふれ、単線鉄道の快走はもはや線上のうつろいから次元を超えて、太陽と暗黒が交互で織りなす綾になり、あたかも千鳥格子の紋様のごとく、さらには連なる飛翔へと結ばれ、おおいに冒険心をくすぐったに違いないと思われてくるのだった。
しかし今、トンネルの閉塞がいかにも深く闇を呼びよせたといわんばかりに悄然とした顔つきで現れるのは、陰の仕業だろうか、それとも己が闇に迎合しているからなのだろうか。

孝之は息子より少しばかり年上の初恵に、いっそのこと今日の帰省の事情を話してみたらどうか案じてみた。
あくまで世代的な共感に通じるだけかも知れないが、その不可知がなりよりも意味ありげに思えてくるのは否定できない。知りえないからこそ、努めて胸襟をひらき親子の会話と云うよりも、人間同士の鮮烈な衝撃として息子に体当たりしてみた。
結果、家内を交えて三つどもえの論議となったのだが、孝之は居心地の悪い勝者となることで自らの矜持をまるく鞘に収めた。
息子の意志は強固なものであり、しかも果敢であった。

斜め読みに導かれた独断論にせよ、孝之が若いころに耽読したマルクスニーチェを引用しての主張には正直驚きを隠せなかったし、何より息子が自分の急所を握っているのではと云う能動的な曲解をいさぎよしとした。
そもそもが断絶なのだ。たとえ血縁においても愛情においても、一番よくそれを理解したつもりになっていたのは自分自身ではなかったのか。
純一の言う理屈は少し胸に手をあててみれば、よくよく納得せざるべき性質をはらんでいた。
「自分だって似たようなものかもな、社会のシステムを毛嫌いしてながら、埋め合わせのつもりなのか宗教学を捨てきれないのは、、、大学の教室も研究室も隠遁の場にふさわしい歪なぬくもりがあるじゃないか」

そんな孝之を尻目に妻は母性本能を最大限に発揮し、磯辺家全体をのみこんでしまう慈愛をもって妥協案を差しだした。
父親としての体面などそれこそ木っ端みじんに吹き飛ばされてしまったのである。
「わかったわ、好きにしなさい、でも条件つきよ、そんなに不利なことじゃないわ。いい、ひとつは期限つき、二年間で一応、東京に戻ってきなさい。いいえ、全面的に引き上げろとまでは言わない、とりあえず戻ってきなさい、先のことなんか分からないわよね、だからあらかじめ期限をつけるの」
叩きつける激しい雷雨のような勢いの押されたのか、息子は反論を示さない。孝之もへびに睨まれた小動物の態で聞きいってしまった。
「ふたつめはわたしも最初の数ヶ月間、あなたと一緒に生活します。ええ、この家を出て故郷に行くとことになるわね。それだけよ、あとはあなたの計画を進めればいい、わたしはよほどのことがない限り干渉しないから」
妻は毅然たる口ぶりでそう言いきると、全神経を使い果たしたのか急に目のかがやきは失せ、今度は孝之に向き直り、それが最後の力だとばかりに手をまるめこみながら、
「これでどうかしら、あなたにはお話しを後からさせてもらいます」
と、さきほどの勇ましさとは別種の冷ややかな意思を覗かせたのである。

その場はそれで互いが了解しあえたかに思えた。何故なら誰よりも先にそれまでの悲愴な面持ちを一変させ、口もとをほころばせたのは我が子であったし、結局のところ、彼の喜びが両親のもとへと伝わっていく道筋が順当であることに早く結着を見いだしたかったからだった。
孝之は胸のなかで呟いた。
「息子はやはり稚拙であり世間知らずだ。制約のある自由と引き換えに時間を与えられたかも知れないが、それこそが貨幣換算に裏打ちされているではいないか。
放埒な青春の一時期を限りないものと錯覚する距離感をすでに閑却してしまっている。だが、母親の巧妙なかけひきを敢て承諾したとするなら、、、いや、どちらにしろ早計だ。後からの話しとやらも想像がつく、家内は衝動を野放しさせてから骨抜きにして言い含める腹づもりだろう。その段取りをこっちにさせる気でいるのさ」

孝之は父、母、子と云う家族構成から、こんな心理ゲームが始まるのをひと事のように鑑賞している自分を見つけ、恥じらいにこころが染色してゆくのを覚えたのだったが、それはただの羞恥にも増して複雑な思惑が重なり合い、不幸が悪いしらせでないために不幸を前もって予期していると云う、上位の俯瞰図を手に入れたと、今度は恥の上塗りをしている確信が、まるで職人業の手並みを見やるまなざしとなって、いずれかの感情は切り捨てられしまうのだった。