美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜19

小林古径の「髪」の魅せるものが、幼年の孝之を禁断の道筋へと案内しかけたのだとは言いがたい。
深沢久道が語った妹と同じほどの年齢、まだ性が芽生えうるもなく、この絵があらわにしている乳房のなめらさから類推されるのは、湯船のなかで間近にされる母のそれであり、少なくとも猥褻さや官能を刺激する分子は肉眼で見定めることは不可能だった。
が、孝之はこの切手を父と書店に行った折に買ってもらった光景をよく思い返せる、いや、厳密には父とのやりとりと述べたほうが明瞭である。

「なんでこんなのがいいんだ、他のにしなさい」
しかめつらだったのか、照れくさそうにしていたのか、その面持ちは思い出せない。
「これ前から欲しかったんだ。趣味週間もだいぶ揃えたし、あとのはけっこう高いしさ」
父は孝之がいつも切手カタログをながめているせいか、そのあたりは合点がいったようで、それに書店の主人が構えるすぐ側に販売用の切手が、カレンダー式で垂れ下がっているのをめくりながら品定めしている具合もあり、横やりから悪気もないのだろうけど、主人から後は「月に雁」だけかいと、ここで売られている最高値の代物を苦笑いしながら口にされたところで、すんなり「髪」は孝之の手に落ちたのだった。

今となっては十歳そこそこの子供が半裸の女性が描かれた絵柄を欲するのは、我ながら理解しがたい。
特に発売年に拘泥したわけでもなく、かと云って他の趣味週間にはない着物を脱ぎ去った裸身に惹かれたわけでもなく、収集歴を鑑みればこれ以外の品も現に集めきれてなかったし、裸うんぬんに関しては一考を与えてみたつもりである。
それでは何故あのシリーズから「髪」を選びとったのか、そう自問を立てた瞬間に孝之の背筋を二本の刺激がまるで電流のごとく伝わって、容易には手の届かない箇所まで走り抜けていくのが分かった。
一筋の電線は比較的抜けた先が予測できそうだった。

「別にあのときこだわりが毅然として居座っていたわけじゃない。
以前からの約束で書店へ連れていってもらったのであり、しかもいつもは小遣いをためたりして買っていたから、源氏より前のものは雨中湯帰りのみ、あれは苦労の末に親戚から譲ってもらったのであって、今回は百円以内の品と云うことで選り抜いただけ、あの前後は一応揃っていたし、、、追想と印象が溶け合っているよう考えてしまうのがいけない。
息子があの切手に執着をみせたことが自分の胸で何ものかを培養してしまっているのだ。純一だけの好奇心にすべてを委ねてしまうのではなく、養分を吸い取らせた自分にも隠匿されるべきものが存在するはずだから」
孝之には電流の発生源を推測してみる気概はあったけれども、今は少しばかり落ち着いてこの「髪」の構図と配色をしみじみ味わってみる余裕が肝心なことに思われた。


淡く薄明るい背景は女人ふたりにある力強さを加味していよう。
両膝をつき長き黒髪を梳く所作、目にも蒼く映える振り袖の色は藍にも染まり、太い白縞が勢いよく下方に落ちだした様は滝の如く濃厚な色調を醸しつつ、互いに妙齢の生を慈しんでいるのだろうか、構図上着物姿の女人は右端が若干途切れながら、これから梳くべき生を恥しのぶ心持ちを素直に切りとっている。

胸元高く締められし朱の帯へ配せられた文様は幽か、右手に忍ばせるよう人差し指がしっかりかかった櫛は判別し難く、同様黒髪の流れにかき消されてしまっているけれど、一点にそそがれる慈愛と慎重がそのまなこに宿っている限りほんのわずかだけ笑みを含んだ紅の色合いも、帯のうちに秘められた無垢なる想いに連なっていると窺われる。
裸身が添え物のごとくありて嫌みも汚れも美しさも主張しないのは、くだんの着物とは対照的な淡萌黄の腰巻きのせいでなく、この絵の主がやはり黒髪に他ならない証だからこそ、また半身あらわな居ずまいはその乳首と紅、眉目をのぞき透き通ってしまいかねない乳白が均一に被い、冷ややかさを暖色に萌えさせよう努めているからであろう。
しかしながら梳かれる身からすれば恥じらう加減で裸身を火照らせてしまうのが不謹慎とばかり、ただじっと真正面を静かに見つめるだけ。
胸のうちをすべて知っている長い長い髪、自らの意志で宙に舞いあがる如く柔らかである。
右の手を膝上へ、左の手を太ももつけねへ、交互に押さえつけるふうに重ねた様は、踊りあがる心持ちを鎮静させようとした遠慮の仕種なのだろうかなどと、見遣るこころはつゆしらず、光明のもとであるのか灯火を待つ日暮れ時であるのか、おそらくはずっとこのまま未来永劫梳き続けられる生に時間も限りもない、女人ふたりは菩薩であると信じられよう。

 

 

化粧12 - 美の特攻隊