美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜35

さすが兄妹だけのことはある、孝之は不穏な気分の狭間からけむりとなって立ちのぼってくる感興を覚えずにはいられなかった。
美代は生前から兄を敬遠していたようだが、思考の方法は似通っているし、聞き手を引き込む話しぶりは生写しと云ってもよい。三人は上映時間の遅れた映画を見入るごとく、美代の語りにのめり込んでいた。

時間系列など意識的に避けながら吸血鬼にまつわる内情をつぶさに喋り始めたかと思えば、肝心かなめな動機には言及せず、久道の執心していた超常現象に関する話題に転じて、心霊と超能力は並列で論じてはいけないと力説し始めたのだが、やはり降り行くところは兄への怨念とも云える情念に終始するのだった。
あきらかに美代は我々に、そう云った恨みつらみを吐き出したいが為、すすんで今日の面会に応じたかに思われた。排出される濁流こそ趣旨そのものなのだろう。

孝之は砂里の落涙も気がかりで仕方なかったが、美代にまみえることに主眼を置いている以上、主役を脇にして来訪者の裏面をさらすわけにはいかなかった。
濁流なのだけれど、よく耳を澄ませば清流へ運ばれゆく一葉が次から次へ、しとどに濡れつつ川面に浮かんでは、沈みゆく。孝之はその一葉が決して同じものでないことを心得ていたが、奥底では連綿と続く呪文のようなその音をいつまでも聞いていたかった。
むろん話しの合間合間でしか、うかがうよう視線を定着できない不甲斐なさは、ゆるゆるとねじを締める金属音と化して、幾度かこころに鋭利なこだまを響かせた。しかし美代との接見が限られたものである現実が、うらはらに夢想とも云えるこの光景を至上へと導く。
孝之に可能な方策は谷間のゆりを眺めるごとく、美代を眼球に映し出し、周到に準備されているかもわからない砂里にまつわる事情を、明瞭なかたちでここに集った者から聞き及ぶことにあった。
だが、ずぶりと刃物を突き刺すみたいに率直な問いかけはためらわれた。その深意は性急すぎていかにも安直であると云う建て前によって二重に保護されていたのだ。

年齢不詳と思いなす意識は曖昧な具象を縁どっていた。
コンクリートを想わせる単色な灰色加減のワンピースは地味であり過ぎたし、対比させる意匠も逸してしまい、白亜に塗られた落書きが罪であるふうな良識に埋没していた。けれどもよく目を凝らせば日だまりのなかに長くは佇めない、それくらい病的な美に漂白された肌であった。

「わたしはこれまで何人かの血を口にしましたけど、わたしの血を吸ったのはひとりだけです。詳細は割愛させていただき、あの日が始まったときとだけ答えておきましょう」
生来なのか、それとも疾患に起因しているのか、美代の声には張りがない。
それでも余ってあるふくよかなもの言いが、抑揚ない一定の規律で貫かれていると感じるのは新鮮な音域を耳にしているからなのか。
小首を傾げるのが癖に見える。まるで章句に捧げられる仕草のように、可憐な花びらと蜜蜂がささやきあい、その密やかな寄り添いに花弁と茎がわずかだけたわむ、風の悪戯にしては微少すぎる連鎖が悩まし気に、乳房へかかる黒髪を艶やかにそよがせている。
「いえ、想像におまかせしますと申したいのですけどやはり正直にお話します。
膝上まで伝ってきたあの血を指ですくいなめるまねをしました。それが始まりでした。学校でからだの仕組みを説明された直後くらいだったので、案外驚きはありませんでしたが、その血を指先でなぞられたときには真新しい体感が走り抜けていったのをはっきり覚えています。だって磯辺さん、すでにご存知なはずでしょう。自分でいうのも変ですが、わたしが早熟な子供であったのを」

薄い唇には少女時代から変わらぬ聡明な生物が棲みついているようだ。
しかもその生物は老獪なすべなど一切身につけない、それでいて季節のうつろいには敏感で美麗な花を咲かせる。青虫が蝶に変身すると花畑がいっそう華やぐように。
「兄は言ってましたか、わたしにキスをしようとして抱きしめたとか。それは本当のことです。ところが、おそらくわたしのほうがすでに経験済みだったのでしょう。歳がいくつ違うかも聞いておりますよね。びっくりしたあの顔ったら、意気消沈とはああした顔つきをさしているのでは、、、それ以降は性的な関心でわたしに触れるのがためらわれたのだと思います」

連想として「血を吸う眼」と云う映画があったなと、少々寄り道をしかけたのも放縦な思念ではあるまい。別に眼球が吸血をおこなうわけではなかったが、役に徹した岸田森の迫真の演技は素晴らしかった。
美代には全体的に強烈な存在感は付与されていないけど、生気が失われた植物的な危うさ、鋭い刺を隠し持っている、岸田森が扮したあの吸血鬼の面影を漂わせていた。映画と同じく美代のまなざしを直視するには厳かな探究心と克己心が要求される。
「カーテンをします。心配ないわ。真っ暗にはなりません、そんなふうにこの部屋は作られています。ある証明を披露するためにです」

どこかに装置が備えられているのだろうか。勝手に暗幕が下ろされるのだったが、たしかに室内は夕暮れの始まりを告げる程度の照度で保たれていた。