美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜37

かつて兄から好色の目で眺められ、淫靡な思惑さえ抱かした妹、美代。
久道の告白めいた追想は果たして脚色が施されていたのだろか。血の繋がった兄妹にもかかわらず欲情のおもむくまま禁令を越えかけたと云う、不透明でいて鮮やかな幻影を張りつける物言い。
それだけでも過分な情報であり、いや過分であるからこそ時間を逆手に空間を歪め、迷宮の呼びかけに応じたのだ。今ここに久道を煩悶させた生き身がいる。
聖なる佇まいかどうか見極められないけれど、如夜叉として怖れられた風説を否定しきれないまま、なおかつ内省は醜い吹きだまりに仮託され、自棄を顧みるどころか鬼胎にすべてさし出している。
吸血鬼、、、女子だけを襲ったと云う風変わりな挙動。
背筋から臀部にかけてさながら樹氷が駆け抜けてゆくような感触を得る。が、激しい伝播は一瞬にして不穏な恍惚とともにその雲路をも霧散させていまう。冷気は熱気になりすまし、ほとばしっていると感じるすべてが虚妄でしかなかったのか、一縷の念いはかなえられない。雪合戦の想い出を持ち合わせていない子供のように。
ならばせめて雪解け水を、その熱い喉もとに注いでみよう。決して虚実だけを見極めに来たわけではない証しとして。
孝之にとって条理はあまり重要な問題でなかった。
肝心なのは今ここでひき起される欲望の現れを凝視することだけだった。ならば美代の風姿をしっかりこの眼球に焼きつけておかなくてはならない。

多少のひかりが棲家を探り当てたのか、それともろうそくから放たれる赤く黄色い炎が棲家を焼き払っているのか、いずれにしろ美代の瞳は案じていたより日輪を嫌悪する気配がなく、雨空にも近親憎悪をもよおしたりしない適度な潤いが見てとれた。
ただ気になるのは小首を傾げる癖らしきあと、翳りをあらわにした笑みに、おそらく本人の意識する以上の愁いが隣接していることだった。
抑揚のない口調でひとこと話し終えた途端、その情感の複合物が肖像画となって画布に描かれる。そしてその肖像画はあたりまえだが一枚一枚彩色が異なっていた。
差異に生き甲斐を感じているのは学者だけではない。女吸血鬼と云えども生きている限り日々の移り変わり、たとえば天候であったり、体調であったり、他者との距離感であったり、その日その日の変転は生命の根幹でもあるはずだ。
美代の目の奥に何が潜んでいるのかは分からないが、こうして彼女を見つめているとそこに映しだされているのは紛れもない自分であることを孝之は、財宝を掘り当てた当惑によく似た会心で迎え入れた。
緊張の糸はほぐれたのか、口角が気を取り直したようあがり気味になるのが感じられると、一時は恐れを抱いていた美代の目つきにいくぶん慣れ始めていた。ちょうど隣家に越して来たばかりの子供と目配せを交すように。

尋常ではない青白い肌もよくよく目を凝らせば、それなりの年齢にふさわしく素顔のままではなくて、しっかり化粧の形跡が見てとれる。
きめ細かい肌質だからなのか、上質の木綿にアイロンをあてたときのような見事な張りと、艶やかさが美白をより一層際立たせていた。この薄明かりでは白さは浮きあがっても、しわやらしみなどは目立つことなく表だつ必要もない。辛うじてその面に影を差すのは、炎のなせる業であり、特に斜め横から見届けた鼻筋、あご先に至る肖像は、逆に生々しい表情を生みだしており、長目の睫毛がそっと伏せられる際など一種神々しい印象さえ備えていた。
実家における兄との関係や想い出が一通り語りつくされたのか、小首を傾げながらもこの部屋にひとつしかないドアに何回か視線を送るのが見てとれる。

「かなり幼い頃だと思います。大掃除の日に障子紙を張り替える光景です。裏庭に出されたそれらを破りとっていたら、兄が何やら奇妙な手法をわたしに伝えたのです。はっきりとは覚えていませんけど、指先に魔法がかかったとでも云うのでしょうか、面白いほど素早く古い障子がはがされていくのでした」
視座を定めることに成功した美代の目は、ドアの向こうへ張りついたまま、その先は誰に話しかけるわけでもない風情の声色になった。あたかも小石が崖を無邪気に転がり落ちるごとく。
「いつの間にか戻ってきた兄を背後に認めると同時に、歪んだ表情をしたままの、そう、驚きが抑えつけられて羨望へと移行しかける決して美しくはない表情です。それが嫉妬の萌芽であったのを知るまでに時間はかかりませんでした」
美代のまなざしはお伽噺をしているときのけれんみを際どく排除しながら、安らぎにも似た憐憫をたたえていた。
「それからのことです。兄がわたしに色々と嫌らしい行為を要求してきたのは」
過ぎ去りし幻影を追いかけるまでもなく、睫毛の先には追憶の哀しみが被さっていた。そして消えかかる想いは風船のように軽やかに宙に浮かんでいる。

その直後、孝之は不可思議な光景をむかえ入れることになった。夕暮れが深まるなか、遠くの明かりがとても身近に感じられてしまうことに似て。