美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜51

純一は表情がこわばりゆくのをどこか覚めた意識でとらえていた。
際どい橋渡しなはずだけれど、平静を装ったまま歩を踏み出しているような、宙に浮いた空気抵抗を感じている。高所から見下ろす先へと吸い込まれそうなめまいにも似たあやふやさが、危険を察知していながらも逃げ去ろうとしない誘惑の罠を想定してしまい、その仕掛けに堕ちてみようとさえ願っている。
それは秋波を送られているのだと積極的に解釈してしまう情動をともなっていたが、簡潔に型押しされることを懐疑した用心深さにより抑制され、胸裏に充たされる手前で拮抗が生じていた。

こわばりを作りだしている分子は決してとまどいや照れだけでなく、予知された緊張がさずけてくれた乾きゆく木綿のような水分をうっすら含んでいる。
いまから交わされる会話がどう進展するのか、そんな蒸発と同じ作用の、抵抗を示さず無理のない、雲間に隠れてしまわない、陽光から届けられる送りものとなってくれれば、そう胸の裡をかすかに焦がしながら憂いを緩和させるのだった。
この気持ちは欲情と無縁なのでは、そんな想いが突風になってよぎったのと、砂里がたおやかな言葉を投げかけた間には、谷底をうかがう冷ややかな気配が漂って、性欲に裏打ちされているせわし気な喜びは静かな引き潮のように遠のいていった。
「わたしを好きなんでしょ」

潮騒であるはずの響きにうらはらの想いが追随してゆく。
それより先を繋がない砂里の居ずまいはしおらしくもあり、増々純一の自尊心を昏迷なものにして、花咲くときめきは不純分子を昇華しながら様々な妄念が、まるで寒色に透ける映し絵のごとく淡い情感をのせて羽ばたたき、この身に巣くう不明瞭なものを旅立たせたると、残像にさえ成りかけている情景は、今すぐにでも手をとり抱きしめたい情動を哀感に置き換え、あまつさえ憐れみの萌芽がどちらのこころなぞったのか見通せないまま、あきらめとも呼びうる波紋を描きだしていった。
「出会った頃からずっと好きだったよ」
別れの言葉を口にするかのように控えめな、けれども切実とした響きを持った答えがにじみ出し、ふたたび砂里の面持ちを慈しみながら見つめた。
しかし沈黙の流れを意図した儚い期待は、陽気な女神によって美しく裏切られた。

「ありがとう。うれしいわ。今もそうなら、わたし、自分を試してみたい気がするけど、どう言えばいいのか、つまりまだ時間が必要に思えてくるの。わかっている、わかっているのよ、傷つくのを恐れていることも、不確かなまま飛びこむような行為にうしろめたさを感じていることも、、、それから何よりもひとを好きになることが不安で仕方ないことも。
でも、大丈夫、別に純一くんに応える為だけにあれこれ悩んでいるわけじゃない。本当はずっと以前から抱え込んできた問題をもう少し引きずっていたいだけかもね。取り急いで証明する必要がないってわけ。だから」
「だから、、、」
手渡されるバトンの要領で純一はあとを引き受けた。
「それでいいのさ。背伸びしたり無理するのはあまりいい結果を生まない。君はぼくの心情もきちんと考えてくれているし、自分自身の心情だってけっこう把握してると思う。今日こうやって話しができたのはとても貴重なことだよ。
砂里ちゃんの不安はぼくの不安さ。それが確かめられたと感じればそれでいい。正直に言えば、今ふたりでいる瞬間をもっと明確に確かめたい、つまりは関係を深めるには裸の君を抱きしめてみたいと願っていた。しかし、そう顔に書いてあるのを指摘されてうろたえてしまったのもまんざらではなさそうだ」

「それでいいの。案外と臆病なだけかもよ。もちろん、わたしもだけど。あと一押しされたら、たぶん純一くんの願いに近づいていけるような気がする。あっ、わたし大胆なこと言っているのかなあ」
「うんまあ、投げやりなところもある。それが大胆なのかどうかは分からない。ただ、じれったさが本音を語っているとは限らないよ。もっともっと駆け引きだけを楽しみたい思惑が臭ってくるから」
「そうかなあ、そんなゲームみたいなまねしたってつまらないでしょ。わたしはわたしで、よく考えながら返答してるつもりだわ。駆け引きだと推測してしまう方が虚しくない。顔のうえにはしっかり欲情が浮かんでいたけど、それって一過性の仮面なわけ。
純一くんさっき、わたしの不安はぼくの不安って言ってたけど、そこにずれがあるのじゃないかなあ。同化したいのって本当は体なのでしょうけど、それを振り切る方便としてお互いの不安を重ね合わせ、まるで昇華したふうに取り澄した意見を吐きながら自分を慰めようとしている。
分かるのよ、そんな気持ちが。過去の件もあるだろうし、お父さんも大変そうだから仕方ないのでしょうけど、覇気のない態度をとることはないと思うの、純一くんは純一くんらしく自由でいればいいのに。まえに聞かされた円環とか轍とか、どうしてもとらわれなくてはならないのかしら、それも一種の想定かも知れないじゃない。ごめん、言い過ぎたかな」
「かまわないよ、その通りだと思うから」
純一の片目が潤みだしている。
しおらしく映ったはずの砂里から思いがけず反論され、崩れゆく自画像こそが堕ちゆく仕掛けであったのをようやく理解した。
薄っぺらい感傷ではなく、隠蔽し続けてきた粘着質な意志のゆくえに対し初めて涙した。きらきらと輝く光芒の住処を見つけたと錯覚したのも無理はない、一縷の涙が沈黙をあたえてくれた。