美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜5

水底はなるほど水底なのね。
てくてく歩いたつもりでもときおり地に足が着いていないような、浮いた感じがする。そしてカエルおばさんの、
「ほら見えてきたでしょう」
この一声ですっきり背筋が伸びて眼球は遊泳しはじめた。
たしかに建物が見えたわ、ぽつんとした一軒家だけど、荒野を思わせる沼の地平では陽炎のようなゆらめきに守られ、慈しみがにじみだしている。
すぐそばまで来てみるとトレーラーの安定感を備えた平たい箱形の、奇妙といえば奇妙な造りだった。屋内はいたって簡素、寝室は隣の部屋なのだろうか、腰掛けるようすすめられたテーブルの置かれた室内に無駄な装飾は見当たらない。洗い場もすぐ近くに面しており早速なべに火が通される。
ここは水底ではないわ、ちゃんと火が燃えているじゃない。すでに水の手応えからはほとんど解放されていたので、別にあらためて驚くこともなかった。もう空気と同じだもんね。幽霊というよりか半魚人になってしまっのかしら。そのほうが自然に思えてくるのだから慣れってある意味怖いわね。
「はい、たくさん召し上がれ」
想像していたとおり、ムーミン家の食卓とそっくりの料理だった。やや大きめのスープ皿、これ一品。クリームシチューのような淡く暖かな色合いが食欲をそそる。遠慮がちだった気持ちはすっと吹き流され、鈍いひかりをゆったり放っている銀色のスプーンを差し入れたの。おやおや一杯ありますよ、具が。
視界が曇ってきた。湯気のせいかな、違うこの匂い、ひとくちも食べてないのに美味に感心、いや感動してしまっている。ついに涙があふれだした。
「あらあら、どうしたの」
カエルおばさんは口をもぐもぐしながら心配そうな視線を投げかけてくれたわ。
「いえ、うれしくて。いただきます」
あとの模様を説明できないのが残念、だってにんじん、じゃがいも、豆らがごろごろとスプーンで転がせるくらい具沢山なうえ、シチューのとろみで運びこまれる美味しさといったら、それはもう、わたし夢中になって食べてしまったから。
紅茶もいただいた。なまずおじさんはパイプをくわえていたので、思わず吹き出しそうになったわよ。これでシルクハットでも被っていれば、まるでムーミンパパじゃない。
「ごちそうさまでした。わたし幽霊らしくなれたように思います」
「そりゃ、よかったね」
これまでの半年、わたしは眠りついていたのだろうか、何をして何を考えていたという覚えが呼び返せない。間違いないわ、意識がめぐってなかった、めぐっていたとしても微弱すぎて視界は暗幕で閉ざされたまま神経伝達も滞っていたのね。
「血がかよっています。幽霊なのにおかしいでしょうが、そんな感覚がみなぎっています」
「あれと一緒だよ、手足を切断した患者が数年たってもなくした肉体にかゆみや痛みを感じるってやつ」
なまずおじさんの吐き出す煙はもっそりして、さながら小さな雲みたい。
「ではその感覚はまやかしなんでしょうか」
「どっちでもいいんだろう。まやかしでも本物でも」
「そうですね」
たった今の味覚も、と言いかけて言葉を慎んだ。食、住と進んできたんだ。まだほんの入り口にすぎない。ここで疑問をいだくこともないわね。つまり自分から様々な不審をつのるより、その場その場を検証するような冷ややか態度が大事だわ。もちろんつぶさに検分するほどの自信はないけど。
「今夜は泊まっていきなさい。あんたの家は遠い」
紫煙とともに吐き出された言葉に愕然とし、せっかくの血の気が引いていった。
「わたしに家があるのですか」
「そうだとも、あるよ」
「どうしてです。わたし、この沼に家を買った覚えはありませんし、住んだ記憶もないです。だとしたら誰が用意してくれたというのでしょう」
「そうだな、これはきちんと話しておこう。あんたは幽霊として目覚めたんだ。わかるね、死んでしまった人間があたかもよみがえったごとく意識を持っている。そうした者は登録されるんだ。生きている間には住民票が必要とされたよう、ここでは目覚め人は登録証を携えていなくてはならない。お役所が決めているわけじゃないよ、ここは死の世界だ、国家も警察も役人も商売人もいない。すべては恵みのごとく配給される。おっと、どこからかって聞いても無駄だね。わしも知らんのじゃ。しかし最低限のルールはある。幽霊であることをよく自覚する、これさえ守れたら永遠を手にしたに等しい」
応酬するつもりはなかったけど、涙よりたやすく意見が口から飛び出してしまった。
「わたし子供のころから心霊とか神様って信じていませんでした。それなのにこんな事態を受け入れようとしている。悪夢ならお願い早く覚めてほしい、でも現実なら見つめる以外になさそうだから、ものわかりはよくするつもりです。何度も出てきますね、この文句」
そう言ってから紫煙を見送っていた。とても熱い心情で。かなりの合間がたなびいたと思う。判決を言いわたされるような高鳴りが序曲にふさわしいかった。

「神様が世界を作ったのか、どうかはわしの答えられる範疇をゆうに越えている。同様に幽霊という存在を認可している不自然な世界に対してもだ。人間には意志があり生きる希望があり、底知れぬ欲望がある、しかし根源的な目的を勝ち得ないみじめさも同居させては嘆きを忘れることがない。そもそもすべてが偶然であってたんなる確率の問題だとしたらどうする。悲しいかな、人間はそうした無為にはたえきれないんだよ。常にどこかに、遥か彼方に、覗けば覗くほど過去の影しか見えないというのに、ひたすら秘密の鍵穴をこじあけたくて仕方ないだな。秘密なんてないかも知れないのに。
そこで幽霊だ。なぜと問うさきには世界認識と同じく、袋小路につきあたるか、天上崇拝に身をゆだねるしかないだろう。われわれはんだはずなのに意識を持ち歩いているじゃないか。何者かに飼いならされているんじゃないかと考えてみたことがあった。人影こそ表沙汰にしないが、どうやら番人がいて登録証を発行しているのは周知のことなんだ。いいかい、そのうちあんたなりの解釈なり認識が加わればそれでいいんだけど、今は傍観しているのが望ましいよ。あんたに危害をあたえる奴は誰もいないし、文句を言う者もいない」
「じっとしていろって」
「ああ、どうあがいてもこの沼から出るのは不可能なんだ。幽霊を演じるとき以外はな」
「えっ、なんて言いました。わたしたちすでに幽霊ですよね、それをなぜ」
「演じるというのかい。これは憶測の域から脱しえないんだがね、幽霊って希少なんだよ。言っただろ目覚める者もいるが眠り続ける者もいる。死んだ人間が全員幽霊になっていたら収拾つかなくなる。だから化けて出れる、つまり意識を得た者は非常に珍しいんだ。鬼太郎のおやじだって幽霊族の末裔だぞ」
「あのう、それって目玉のおやじのことですか。漫画ですねよ、一緒にしていいんでしょうか」
「そうだとも、別々にする意味合いもないだろう。先見の明があったというわけだ。でだよ、わしらに希少性あるとしてだ、それを管理している、ほら動物園とか水族館を思い出せばいい、大事に大事に育てられ観察されているってことになる。ひょっとしたら見世物になっているかもな。幽霊でも妖怪でもなんでもいいんだよ、珍しいこれが決め手だ」
「半年まえにはそんなこと聞いた試しがないですし、少し飛躍しすぎてませんか」
「じゃあ、この現象をはっきり説明できるのかい。集団催眠あるいはどちらかの幻想としておこうか」
「そんな、わたしにはなにも」
「あんたがあの扉の向こうで考えこんでいる間に、これは言うのをためらっていたんだがね」
「なんなの、かまわないから言ってください」
「沼暦で10年が過ぎた」
「どういうことですか」
「時計はあるんだ、デジタルだよ。おそらく外の世界の時間と流れは変わらない。あんたがいろいろ思索したようにわしだって考えに考えたよ。来る日も来る日もな、ここは苦難こそないが、誰もが倦怠という悪魔に取り憑かれてしまう。あまりいっぺんに話しこむと受けきれないだろう、ひどく疲れた顔色じゃ」
「わかりました。さきは長そうですものね。あわてたりしません。のんびり骨休みでもする気構えでいきます」
「おお、そうかい、それがいい。もうおやすみ、そのまえにもうひとつだけ。わしらは眠っているときにどうやら水上に浮かびあがるそうだよ。睡眠には意識がないけど夢を見ることはあるだろう。もしかしたらそれが外界のすがたかも知れんなあ」
紫煙は掻き消えており、苦渋に満ちたなまずの表情が目のまえにあった。脇のカエルおばさんはとても悲しそうな顔をしていたわ。夢か、出口はあるじゃない。わたしすぐにでも眠りつきたくて仕方なかった。わかるでしょう、このはやる気持ち。