美の特攻隊

てのひら小説

メデューサ(後編)

見果てぬ夢を思い浮かべてみる愉悦が、いかに艱苦とは無縁の居場所でつぼみをひろげようとしていたのか、当時のジャンに限らずとも、薄っぺらでありながら強固なその花弁はとりとめない揺籃からこぼれ落ちたであろうし、おのずと近づいてくる恋情の魅惑に淡いあこがれを抱いたとして不思議はあるまい。
むしろ、未知なる明日に過剰な期待を寄せており、しかし反面では細心の紋様が渺然と寝室に満ちていたのだ。
童心の仕草は徒為につき動かされているかも知れないが、ちょうど草の根をかき分けるよう地面を這いまわる昆虫の姿態にある種の感銘を、それがたとえ意識に上らなくとも、注がれた視線は俯瞰の領域とは異なる穏やかな軌跡を描くのであろう。

さてプルート老人とジャンとのふれあいがどのような間合いと情調を生み出していたかを想像するに、とりわけ発端やら成りゆきを述べることは、この短い物語りにあまり意義をなさない。
なにより端的な石化が可能であると信じる畏怖ゆえに、また背馳なのだが朧なる時間の過ぎゆきに対し、あえて委細が省かれる暁光を想わせる自然によりかえって性急な、そうあたかも暮れ時のすべり台に興じる体感を想起せしめ、その場面は玲瓏たる、そしてもっとも香しい意趣に支配されるからである。

ものごころつかない折から女の子の衣装をあてがわれていたジャンにとって、その後の抵抗はあったにせよ、ある距離までの許容範囲でしかない近づきすぎることへの思慕は、明度がどうあれ異性の蠱惑である以上、仰望にも似た欲求はまだ明快な輪郭と落とし穴のような抜けを覚えず、月並みな言い方をすれば、自らのなかに色香を見出すしか手だてがなかったのだ。
古書に現れたゴーゴン姉妹に対するジャンの反応は、便宜を承知のうえで語るなら、それらはあらかじめプルートの胸におさめられており、すでにあやかしの名分は認証され、ゆくえを見失うあやまちが入りこむ余地はなかった。
つまり少年のまだ未分化であるこぼれる情欲と、老人の枯れ木へしたたり落ちるような雨露は陽光と月影の関係で結ばれ、その交差する時間の重なりに歳月はしりぞくしかなかったのである。夢想が宙を舞えば、いわれなき下半身に屹立するものは同等の価値を放つしかなかろう。

衆人の世評とは無縁でありつつ自身の粉飾に金輪際いや気がさしたわけでもないジャンの心持ちを見抜いていたプルートは、自傷によってすべてが払拭され生まれ代わったとも、割礼にならった風習を無意識になぞったとも考えておらず、逆に冴えわたった月影に照らされる青白きかがやきだけを見定めた。
余人の知らぬところで少年は女装のきらびやかさを内心こころよく感じていたに違いない。
現にあれだけからだに触れられるのを嫌ったにもかかわらず、ふともらしたゴーゴン伝説に関する謂れを優しいまなざしで詳しく聞かせたことにより、ジャンの警戒心は解かれ威勢よい爆竹よろしく炸裂し、そしてその硝煙を含みいれるがごとく肉厚の風船を膨らませたのだった。
醜悪な容貌に怖れをなす一方で、着飾っては薫香に包まれたひとときを忘れるはずがなく、まわりへの反撥はいわば凡庸な態度に過ぎないことを胸の片隅で心得ていたのだ。
少年が欲した誉れ、それは自分の外へと流れゆく芳香であり、かといって対象をかたち作る条件へ意志を傾けるには到底およばず、ほぼ羞恥に被われた野放図な希求であったと思われる。

ジャンは老人と親しくなるにつれ、彼の名をあやまってピエールと呼ぶことが度々あったけれど、老人は別段いましめるのでもなく、ただ苦笑して少年の遊戯にひそんだ陰りと栄光をこころのなかにそっと見つめた。
その栄光とは寡黙なひかりを浴びてまばゆく、プルートが眠りつかせてきたかつての郷愁に甘く苛まれる危惧を避けるためにも、ついぞナルキッソスの伝承を口にすることがはばかられた。
理由はプルート本人の変容願望が樹液のように頬をつたうのをためらったからで、それは経年の知恵だと心得て貫目が保たれるのを望んだに他ならない。
増々もってゴーゴン伝説に収斂してゆく様は火を見るより明らかで、プルート老人はピエールと呼び間違えられる毎に股間を押さえつけるふうな手つきをしめし、またジャンは見るものをして一瞬で石像に変えてしまう妖術に酔いしれ、異性が自らの裡に宿っている幻想を決して振り払おうとはしなかった。

やがて姉妹のなかでメデューサが海神ポセイドンの愛人であることを知るに至り、遠い憧憬は遥か雲海を越え大海原へと飛躍してやまず、神話は血肉となり果て、老人の若かりしころを夢想しはじめたのであった。
ピエールという呼び名はそうした事由によるはにかみだったのかどうか、ただこの見解には穿ち過ぎのきらいがあるので、安易に情欲へと排水を流すような無粋は避けたいのだが、鏡を用いての大団円にジャンが驚喜した事実を無視することは出来そうもない。
硬直する肉体を賭してその首をはねる果敢で頽廃によって突き飛ばされる情動は、恍惚とした輝きにあふれており、また陸離たる紋様の奏でる通底音に身を震わさずにはいられなかったからである。

おさなき日々の戯れにはいつも欲情がひそんでいる。
燦々と上る朝陽ではなく、鉛色に暮れなずむ天空を朱に染める夕陽こそ寝屋にしのぶ官能に導かれ、禁断の扉に透ける裸体は仄かでありながらゆるぎない衝動を保持し、たそがれのまどろみと拮抗する。
鏡よ、鏡、、、老いたプルートは若い盛りのジャンを見越ていたのだろうか、幼年の健気で陰湿な面をはらんだ性質を知悉していたのだろうか。
奇しくも積み荷をめぐって諌めた言葉は、記憶のなかに埋もれた書物の断片に、あどけなさの裡へ巣食った美しさに、聡明な瞳の陰に燃えた情念に、そして無骨を気取った小胆の置きどころに届いたのだろうか。
老人は北極星のまたたきを忘れたかった。少年は忘れものを思い出せなかった。