美の特攻隊

てのひら小説

かくりよ

もどかしいほど静かなのね。
ええ、とてもゆったりとしたさざなみが押してはかえし、かえすさなかあなたの産声をどこか遠くに耳へしたような心持ちが生まれて、それはそれは不思議な響きがするのです。
でも生まれたてすぐさまの音色なんか、案じてみてもとりとめないですし、かりにそっと不穏の種が軽くはじかれたのか、あるいは地平の貪欲さがにじみ出たとして、今の気分からすればさほど大仰なことがらではありませんわ。
昨日をふりむくようすっとまなざしを投げ遣ってみたところで、それは幻聴がばねをゆるめたおとし子だったかも知れないし、第一ゆくてをさえぎる風のささやきがあなたの所在に与しているようで仕方ありません。
ただ夜風を背にうける不遜な意識が鼻孔へ微かな反乱をもよおすときだけ、まとまりのつかない感覚にいざなわれ、ほの明るい静寂のなかにたたずむ異形がわたしをとりこにするのでした。


幸吉は湯女というものを知らなかった。
適当な知識くらいははあったかも知れないけれど、間近に触れてみたことはない。しかし今こうして指先をのばすまでもなく、その冷ややかさに促された生暖かさを感じとっている妙な気分にまわりは、淡い恋情が肌よせあっているふうな懐かしさで満たされていた。
「どうも最近、耳の奥がかゆくてね」
色変わりを見定めるより早く幸吉は、眼窩を制するまだ残された少女のおもかげに甘酸っぱさを覚えかけると、訝しい虚勢がちらり顔をのぞかせては、そのくせ足場のおぼつかない土台はいつまでたってもこのまま放置されてしまうようで愁いに苛まれるしかなかった。
「よく見てあげましょう」
吐く息が耳朶をくすぐりそうな甘い恥じらいに幸吉の頬や首筋はほんのり染まりかけた。しかし、湯女の姿態を取り囲むがらんとした無味な部屋の様子にふと我へかえった途端、ちりひとつ舞ってないかのごとく空疎で間延びした情況が押し寄せてきた。
白襦袢の居住まいに湯気はまったくおりてない。
湯女と呼ぶにはふさわしくない相手は、
「わたしにはよくわかりませんわ。ほらいい具合の陽射しなのに奥のほうまで届かないようですね。それならちょうどよいからかみそりで髪の毛を切ってあげましょうか」
確かに陽当たりはどうした加減か、泣きたくなるくらいにほどよく、だが唐突に言い出した言葉にことさら驚くこともないまま、それは少女の顔の反面へ浮きあがっている鋭利な欲情を見通してしまった過誤によるものだろう、過誤でなければ事態でかまわない、そちらのほうが好都合であると、幸吉は薄ら寂しい夜風を耳もとに後追いしながら眠りおちた幼年のころを思い出し、暗鬼へと連なる怖れと期待に胸を震わせた。
寝入り際の微細なものおとが醸しだす景色は、夜の闇の支配に縛られるとは限らず、恐々した様相に傾いていくばかりでなく、反対に青空をゆったり流れる雲の静けさであったり、昼下がりの縁側をわがもの顔で闊歩してゆく鈍い毛並みをした野良猫だったり、向こうの草むらにひそんだ蜥蜴の尾の俊敏なひかりの動きなどを映しだしていた。
もし夢見のとば口に番人がたたずんでいるなら、現在でも幸吉を歪んだ絶景に導いてくれるのだろうか。
「さあ、おとなしくしていて。このかみそりはとても切れるから」
なるほど湯女の演じる手もとに狂いはなさそうだ。
そして片ひざを起こしたとき、さきほどまで疎遠であった肉体の照りがあたかも陽光に呼び求められたのか、襦袢の白みを抜けたふとももの染まり模様、それはこぼれ湯を浴びたごとく華やいでいるのだった。