美の特攻隊

てのひら小説

タイムマシンにお願い〜4

そのときようやくNさんは口角を上げた。

実験に魂を捧げてきた学者が見せる至情の笑みだった。決して人懐かしい笑顔ではなく、どちらかと言えば月影に照らされた能面の放つ、妙えなるひかりに似て光線を追いかける勢いで訪れた一陣の風に乗り、幽かな笛の音が耳の奥に聞こえてきそうな表情。

憂慮しているすべてを柔らかに包みこんで、夢とうつつの境目にたゆたっているときの充足感は精緻な言葉を退けようと努めているのか。自分は芝居の決め科白みたいにひとことだけ吐いた。

「Nさんはどれくらい遡ったのですか」

それはある意識の方角から落とされた小石だった。能の面貌にわずかな、もちろん肉眼では窺えないほどの亀裂が現われ、そこから隠された素顔に水がしたたるよう情感がこぼれ、こう呟いた。

「いわば個人史です。秘密にしておきたい。でも安心なさい、その紙幣が使えたのですからあなたが望んでいる時代とそう大差はありません」

Nさんは微笑を保持したまま腕時計を差し出した。そして穏やかな顔つきは日輪を霞める雲影を映しとりながら、冷徹な発明家の矜持に返り咲き説明してくれた。さながら花陰を指し示す按配で。

シチズンのアラーム・4ハンズです」

くすんだ金色の縁取りは秒針を巡らす為にこんなに丸みを強調しているのだろうか。

見るからに昭和三十年代が懐古される古びたねじ巻き式腕時計、竜頭がふたつ付いているのがアラーム仕様なのだと認める。

「いかにも表面は当時のモデルですが、これもタイムマシンの付属になっています。時刻設定は為されています。ええ、ですから竜頭は絶対に動かさないでください。これより72時間先、午後3時にプログラム済みですので」

「なるほど分かりました。それではこの時計は預かっておいてください」

これまで着けていたものを外しNさんから受け取った時計をはめ椅子に座った。もうため息さえ空気と不分に交わっている。

「おっと、いけない。言い忘れるとこでした。空間移動が不可能なのは先ほど言った通りで、つまりあなたは三日後この場所に帰ってこなければなりません。40年前この辺り一帯は竹やぶでしたが」

「だいじょうぶです。学校の裏手に広がったところですから、覚えはあります」

「必ず午後3時までに戻っていてください」

「それでこんな折りたたみが出来る事務椅子が選ばれたんですね」

「まあ、そういったところです。それから操作などはいりませんよ。ただその時刻に椅子に座ればよいのです」

「分かりました。ではお願いします」

あれこれ危惧したことなど最早すっかりかき消されてしまっていた。