美の特攻隊

てのひら小説

化粧6

「いい撮るわよ、あっ、そんなふうに無理して笑顔じゃなくていいから。もっとおすまし顔で。そう、でも少しだけ目を下にしてどこか悲しいそうに。ごめん、ごめん、泣きだしそうな表情じゃなくてね。ちょっとだけつまらなそうにしてみて。はい、もう一枚。そうだわねえ、こころになかでね、テレビドラマ、あっ、悲恋ものとか、オーバーすぎるか。

あのさあ、美代ちゃん、ムーミン見てるでしょ、先週の見た。うん小鳥が死んじゃうやつ。じゃあね、最後にムーミンが崖から海に向かって叫ぶ場面、あれ思い出してみてよ」

 

屈託のない調子で喋る陽子の注文だったけれど、美代は却って当惑を覚えてしまい、微かにからだに熱を帯びはじめていた。

しかし、本心がちょうど湯上がりの肌から発する仄かなぬくもりである以上、とまどいは優しく引けゆく。
伏せ目にした顔、額から両頬のあたりにかけてゆるかやにウェーブがかけられた髪は、奇妙な違和感から徐々に解消されようとしている。

この場合の違和と云うのはあくまでおさな顔が一様に形容しがたい色香を漂わせているためであって、ドライヤーと豚毛ブラシでにわか拵えした毛先にかけてそよいでいる美麗が際立つにつれ、あべこべに少女では充たされない妙齢への期待は、先手を打って美代を未来へと申し送られたのだった。
意識するまでもなく、ゆっくりとちょうどもの思いからふと我に返った素振りが、なに気に悩ましい横顔となって憂愁を身にまとったふうに映ったりする。


「これで服装が整ってれば最高なんだけどなあ、わたしの服どうしても大きすぎるから」
と、落胆した声をもらしかけたのだが、ふと壁のすみにひっそりとかけられていたベージュ色のレインコートに目をやり、さっとハンガーからはずして、
「これを羽織っていればいいわ。小さなからだもうまく隠してくれるし」


こうして陽子の工夫によりいよいよ念入りの撮影がはじまったのである。
部屋の照明はやはり灯らないままカメラをぎこちなさそうに扱う格好であったけれど、気のせいか時折窓の外でほのかに暖かな風が運ばれているように感じたのは、雲の間から少しだけ光線が送られて来たせいだろう。
レンズ越しとは云え、そのすぐ内側には無防備な視線が、、、写真に集中していることでこちらに応対する義務が緩和されてしまった分だけ、陽子の配慮は別のかたちで美代をこわばらせてしまった。

普段とは違う何かが研ぎすまされ、それは夜中に刃物を研ぐと云った陰惨なうちにも清冽な視線が込められいるおごそかな様相で、いつかの大晦日に覚えた粛然とした寒気に触れたときを思い出させた。
いつになく静まりかえった辺りの雰囲気は引き潮にさらわれる自然の出来事として感じられて、今よりおさない胸のうちにはほこりが清潔に舞うよう、ことばにならない怖れや関心が軽やかにひろがった。

潮が遠のいた彼方からはうかがい知れない存在が、じっと自分たちの方へと見つめることも可能なちからを秘めている気配が、濃密な意志でもあるかのように漂い、また兄から聞かされていた妖怪や幽霊の話しなどもその延長にあると云うふうにも信じていたのは、ひとえに世のなかの仕掛けになどまったく関知することなく、おぼろげな気分で日々の過ぎゆきに身をゆだねている年齢でいられたからだろうか。

 

ことばはあらゆる物事を定義しはじめる輪郭線を描くすべを知らない。

真綿にくるまれた心身は意識の明滅をつかさどってやわらかにしか手応えを受けとめれない、感性の芽でしかなかった。
それが幼稚園から学校にあがるころにもなれば、まずことばが最優先となり、否が応でも教育の束縛から逃れるわけにはいかなくなる。

まだ自己を明瞭に持つことを自覚し得ないから、乾燥した砂に水が浸透するよう表面的には抵抗を示さないのだが、美代にとって学校とは授業を受けるだけとは到底思ってなく、かと云って勉強をなおざりにしておく悪意をうちに宿していたわけではなかった。

ただ自分とは性格も育ちも様々に異なる級友や、背丈が見上げるほどまで成育している上級生のなかに入り混じっている事実だけが、これからの未来への架け橋となっており、それがどう云った意味あいで結ばれているのかは判然としないものの、入学式の際に肌で知った悲哀にはまだ覚束ないけれど、何かしら観念し尽くした気持ちが伝わるにもかかわらず穏やかに静まる具合で、集団儀式を絶対視してしまったように、これからの毎日を受けいれる準備となり出発となっているのだった。
ところがこうして身内でもない年上の同性、ふたりしてのかつて試しのない遊戯から逸脱しかけた不穏さを認めつつ陶酔に近いくすぐったくなりそうなこころよさへと波及する予期されない視線は、必要以上に自分の意思を凍結させてしまう作用があり、それは陽子本人も見通せない胸裏にたかまる熱意がこうやってひとすじの目で被写体と向かいあっていることで、冷ややかな緊張が形成されて美代のうえへと覆ってくる。

興味本位ながら指先と面が触れ合っていた今までの親しみと敬いが、レンズを介して一方通行と化して自分の方に、もちろん濾過された純朴さとは別様の乾いた風みたいに吹きつけるのだった。
そんな置いてけぼりをくってしまったようなこころもとなさは、相手に対し同様の空白を作り出してしまう。

美代は陽子がぬけがらになって、今ここに居ないのではないかと不意に寂しくなった。