美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 4

純一のめざめはすぐそこまで近づいていた。
このまちで暮らしていることが奇跡なのではなく、このまちそのものが奇跡なのだと、少年のこころに疾風が吹きこみ鮮やかな波紋が大きくひろがって、足もとを潤沢にさせた。
この世のなかに息づいている実感をこれほどまで微塵もなく疑いようなく、今までつかみとれただろうか。
三好の家屋に及びそうなくらいまで湛えられた穏やかな海、三方を圧迫とは無縁の快さで取り囲む山の連なりは湿気を常にはらんでいるかのようだけれど、雨脚を心憎いまでに統御してみせる天候の対照が、純然とした意志のもと運ばれてゆく時間それ自体となって惑わすことに、まぎれもない歓びを見いだすのだった。
風来とともに訪れた波うち際に立つ、渡り鳥の無心のように。そして白砂の浜におちた孤影が無上の慈しみで縁どられているように。

東京に置き忘れていた出立の記念碑を、思いのほか早くこの身にしるせることが可能となる予感、それは潮風にまじる生臭さで野性を呼び覚まし刺激をあたえたのか、生き生きとした欲望が夢見ながらにひも解かれる様は、まるで恣意的な放物線が小気味よく描かれるに似て軽快だった。
三好は自分のことを「だんなさん」と呼んだ純一に対し照れくさそうな笑い顔を浮かべながら、
「おいおい、そんなたいそうな旅館でもあるまいし、それにいまどき、そんなふうには言わないもんだよ。純ちゃん」と、軽く受けながし「わしはここいらではまんさんって呼ばれるんだ、満蔵だからね」親しみありげに念押しの風情でそう言った。
「はい、わかりました。では奥さんはおかみさんではだめなんですね」
応答の具合が間合いよく思われたのだろう、三好の奥さんは、
「あらあら、あたしはおかみさんって響きが気にいったわ。ええ、そう呼んで下さいな、このひとはまんさんでも、まんぞうでもかまうもんですか」
そんなやりとりも快調に、そして、ここでの仕事の役割なども別段苦もなく覚えてしまった純一は、早朝と云うより夜明けまえから起きださなくてはならないことの他、予想外の生活変化もなく、またたく間に眠りの深さからくる一日の清澄を覚え、名も知らない花のつぼみに何やら目配せしたまま、さりとて散りゆくはかなさは巡り巡る季節の連動とでも云った調子で、それまで懸念していた手狭さや気苦労など想像してみるなど無駄骨、ここはひとつ宙に浮いた感覚で流れてゆこうと、選びとった境遇を満足気に眺めやるのだった。

掃き掃除や雑巾がけのさなかに汗がにじみだすのが疎ましくなる頃になって、ようやく鏡のような意識にひと筋のひび割れが生じているのを認める必要に駆られた。
わずかの間だったけれども、それまで純一の日々は確かに自然のなかでときが刻まれていた。

母から聞かされていた三好の娘、朱美がこの家に戻ってきたのだ。家のものからもその旨は知らされていたから、純一は殊更に気をもんでみることもなかったのだが。
「夏の終わり頃って言ったんだがね、とりあえず別居のかたちをとるから来週帰って来るって。純ちゃんもちいさいときに会ったこともあるだろ、なに、これまで三人家族だったのが四人になるだけさ。働き手も増えるってわけだしね。気むずかしいやつでもないし、反対に能天気すぎるから、むこうに愛想つかされたんだろうよ」
そんな三好の言葉はどこか自分が叱咤されているふうにも聞こえたのだが、気のまわし過ぎは神経にさわると、ここに来てから若葉のように勢いを増した、自然主義的な感性で素直に受けとった。
「母親の叔母の娘だから、どれくらいの血縁になるのだろう、、、叔母と云っても母と姉妹ほどの年齢差で、しかも朱美さんもまだ二十代半ばだし、なんて呼べばいいのか、、、お姉さんでは、なれなれしいかも、お嬢さんなんていうと、また古風だとからかわれる、それに何より出戻りだから、、、」
そんな一見気配りにも似た、照れ隠しをまとった詮索がどこかむず痒くしかも薄ら寒いのは、逆さにしてみれば隠れみのがすっぽりとれてしまった裸の虫みたいで、ただ自己の居場所を再確認することでしかないと純一は勘づいてしまったのだが、つまらない直感など毎日の日課でもある単調なほうきで掃いて捨てればいいのだと、些事に拘泥する不甲斐なさへ向き合う代わりに、ひたすら朱美との再会の日を指折り数えたのである。

よく晴れわたったその日、午後の陽光はこれから描きだされる、ひと夏のストーリーの序曲の伴奏を求めるソリストの高慢さのように、近辺を容赦なく照りつけた。
まばゆくひかる海面も、蒼天の色合いに呼応して深みをつのらせる山嶺も、このまち特有の瓦葺きの家々も、そんな鋭くなった陽射しに制圧されたのか、あるいはこれから激しくなる熱射に順化するためのあきらめなのか。
純一は少なくともそういった季節の擬人からは一歩抜け出ていると自負していたけれど、次なる一歩がまわれ右をして、下手をすれば自然現象の裡に飲みこまれてしまう予兆を感じていた。
彼は決して自然を愛しているのではなかった、自然のなかでそれを超克してみたかったのである。

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