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美の特攻隊

てのひら小説

夜の河 〜2

初恵は神木と伝わる大楠の木陰で涼をとってから、港のにぎわいが潮風をはらんだほどよい熱気に感じられ、川縁に沿って海岸の方へと歩いていった。
鉄柵がいくらか低くなった辺りにきて下方へ目をやると、垂直に切り立ってはいないが傾斜のきつい、コンクリートで塗りかためられた中程、何かがこちらに向かってうごめいているのが見てとれる。
策から乗り出すようにして凝視すれば、それは自分の掌くらいの石灰色をした亀で、地の底から天上を目指して這い上がってくるふうに感じられ、小さい頃ミドリ亀を飼っていたがいつの間にか逃げ出しまい、それっきりすがたを現さなかった記憶が切実とよみがえり、こちらへ懸命に上ってくる場面に合わさって、ことさら胸をときめかしたのだった。

さらに声援を送る勢いで上半身をくの字に曲げたのが、まったく予期しない結果を招いてしまった。
履きなれない下駄が上背を持ち上げるあんばいで、両足が地から離れると同時に全身のバランスが失われ、頭部が錘の役目を果たした瞬間、初恵は緩やかに半円を描くよう真っ逆さまに川の中に転落してしまった。
落下のさなかはまるでスローモーションだった。
ふんわりと重力から開放された感覚が訪れたときには、非常に危険な状態を意識しつつも、一方では深い川ではない、溺れることもあるまい、祭りの日に最悪なアクシデントに見舞われるなんてまったくついてない、などと不測の事態を客観視する余力がこころの中に残っていた。
しかし、顔面から水しぶきをあげ半身が没した刹那には、状況を回避させるべく安易な思惑は消えさり、声にならない悲鳴が全身に響きわたったのである。

たしかに水かさは日頃より増していたし、河口が連なる海はこれから満潮を迎えるところで、思いのほか深みを知った初恵は、ほとんどパニック状態になり水中でもがきながら、呼吸を確保しなければと焦ったせいで川水をのみ込んでしまい、これまで味わったことのないくらいの息苦しさと、恐怖に翻弄されるはめになった。
それでも手足をばたつかせているうちに片足が川底をなぞり、ややあって両の足を固定しかけたときには何とか救いの光明が見いだされ、後は手をひろげて羽ばたきをする要領で均衡をただし、水中に立ち止まることができた。
胸元まで及ばない浅瀬であることを確認すると、一気に悲しみや怒りや怖れやらが混交となって押し寄せ、ふたたび冷静さをなくしかけたのだが、辺りを見渡せばすぐ先に人が歩いていける格好の平坦な場所がある。
あそこまでたどり着けばよい、あくまで慎重にと右足から踏み出したのだけれど、落下の際なのか、あるいはもがいている途中で下駄を失ったのか、素足になっていることが得体のわからない不安を呼び寄せた。
それでも左足を確認するとこちらは素足でなない、しっかりと履物をしている。
その安堵が先を急がせた、足下の情況は不安定なままに。

眼前にせまる歩行が許せる地へもう少しのところだった。
進める自分の足下に落とし穴が存在いるとは初恵は夢にも思わなかった。正確には川底に横たわっていた金属製の細長い部品のようなものに躓いて、今度は真正面に倒れ込んでしまったのだ。
しかも後わずかで到達するはずだった水面から浮き出たコンクリートの角にしたたか顔面をぶつけ昏倒してしまったのである。
その格好は溺れかけた者が岸壁に半身をささえるようにして、ようやく一命をとりとめた様に似ていた。

初恵は運が悪かった。すぐ上の道路はいつもより交通量も多く人通りもあったのだが、祭りの日の今日、人々の意識は華やかな舞台となる海の方面へと向かっている、誰ひとり日頃から連綿と流れゆく河川に一瞥をくれる者はいない。
やがて満ち潮によって水かさは初恵を被い隠そうとし始める。しかしちょうど帯をしめたあたりの水中に大きな突起物があって、うまい具合に浴衣がひっかかり、コンクリートの側面から浮遊して流されることはかろうじてまぬがれたのだった。

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