美の特攻隊

てのひら小説

行人

あれはそう、春一番が眠りのまろうどをかき分け吹き抜けた頃であった。
なだらかな傾斜をもつ坂の下に古びた民家を見いだした。とくに用事があってのことではない、なにかしら胸騒ぎがするような気がして散策に出かけたまでのこと。
目がかすんで見えるのはうっすらとした砂塵にも似た、とるに足らない、しかし思いつめれば不穏な陰りに明滅する微生物が空を舞っていたからだろうか。
玄関口がすこし覗けているのが、どこか濃い化粧をほどこした老婆の目もとに浮き出た隈を想わせ、微かな嫌悪を覚え、その反面、不快な気分にひそむ磁力のようなものが稼働したのか、投げやりの足取りに加速がかかった。朧げな意想のありかをあざけ笑うごとく。
坂が終わったところで、こちらを見つめたたずんでいるおんなと目が合った。
微笑みはたやすく、しかもかすんだ視界がもとからひらけているような錯誤のせいで、胸騒ぎはあらぬ方向に導かれ、魅惑の表情が鏡面に映しだされてしまった。
わずかな波紋をつくりながら、さざ波の幻影を宿した仄暗い欲情が風に巻かれてゆく。

昼下がりの陽光は、たおやかな身のこなしを地面に焼きつけたのか、まるで障子の裏に遊ぶ手招きの影みたいにおどりだし、色彩すら忘れた輪郭だけが指輪のごとく、きらりと反射する。
深い陰影の裡にかくれた動揺が追い風に乗って、ひらひら散らばれば、それ見たことかと、どうやらおんなの好奇をくすぐったらしく、にっこり笑いながらかけ声を待っているのか、自在にうごめいている影絵とは別物あつかいの様相で、真正面に向き合ってしまった。
そう念じたのは誰なのか、案ずる余地もないまま、
「この家のひとでしょうか」
なんて、歯の浮いた問いを投げかけてみれば無言でこっくりうなずいてしまう。いや、おんなではない、影と戯れるまなざしがである。
覗ける玄関にどちらともなく手をかけ忍びこんだとき、さながら朽ちた隧道へ足を踏み入れた心持ちがして、急激な興奮と不確かな慚愧にのみこまれた。

おさない頃、押し入れのなかにもぐりこみ、ひっそり息を殺していたあの感覚が膨張する。
部屋のふすまを開けると、リスとウサギの描かれた掛け布団を目の当たりにしてしまい、甘く切ない後悔の念が押し寄せてきた。
「もう、おねしょはいけないのよ」
母の叱責に怒気はなく、哀願に近い声色が耳に触れる。
それでも手招きの影絵を踏みしめるようにして、おんなのからだに被さると、はりつめていた肉感は下敷きにされ、なめらかなはずの裸体がいやにざらつくのだった。

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