美の特攻隊

てのひら小説

メデューサ(前編)

北極星の瞬きが港に落ちるころ、泥をかぶった酒場の裏に転がることを忘れた樽の影に、その奥へどっしり腰をすえた煤けた瓶にたまった汚水の上に、かがやきを失わないひかりの矢が降り注ぐと、ふて寝をきめこんでいた野良猫や、酩酊しても笑みをしめさない呑んだくれの人夫らの顔つきにいくらかの意欲が戻ってきた。
もっともこの場合、意欲というのは樽底へ残ったエキスが発酵にともない効能あらわにしたのものでも、通り雨で洗い流された汚濁に感心をよせるものでもなく、むしろ臨終間際の病人の眼窩ににじむ体液に似た苦い心地を含んでいた。
船出を待つ錨がわずかに揺れているのは、昨夜の嵐の名残りだろうと感ずるまでもなく水夫たちはそれぞれの身支度に余念がなかった。積み荷を検分してまわったジャン・ジャックの轍を踏むまい、錆ついた良識だと嘲られようとも己の運命が左右されざるを得ない怖れから鑑みれば捨ておくことは出来ない。それがプルート老人の提言であった由縁は周知のことである。
しかしジャンのとった醇乎たる判断を、その顛末のすべてを知る者はおらず、記された航海日誌から読み解ける情況よりことの次第を推量するしかすべはなかった。
奇態な風聞につきものの邪性をまとった暗幕にはもっと深い陰しか見出せず、そして困り果てた興行主が姑息に用いる粉黛すら幻影に過ぎず、果断なジャンの意志は波打つ右舷にむかって揺れる錨の静けさをなぞっているかのようであった。
口調はいたって穏やかだが真率なまなざしを絶やさないプルート老人の助言もまた海底の藻を想わせる揺らぎになった。

「わしはおさない時分のジャンをよく遊んでやったよ。けど抱っこしてやろうとすると暴れだすから始末におけん。おまえさんらには想像つかんだろうが、それはそれは見目麗しくてな、まるでアフロディテかと親族はもちろんまわりの人々も賛嘆しながら口にしたものだ。で、可愛さからみなが頬をなでたりキスをしたがったり、天童をあがめる按排で囃し立てる。それが次第に鬱陶しくなったんだろうな、髪も肌にも触れられるのがたまらない様子でしまいにはたとえ母親だろうが見知った顔だろうが、近づくのでさえ露骨に不快な視線を放つようになった。
当時は両親が骨董店を営んでおり、ジャンは格好の着せ替え人形にされていたのさ。ああ、この目で何度も見せてもらったよ、長い金髪に結ばれた緋色のリボン、洋服はもちろん女の子の着るフリルつきのドレスで、時代がかっているせいか、さながら舞踏会に繰り出すお姫さまのようだった。
ある日にはあえて趣向をただし、長い髪を束ねバロック風の楽士を演じれば、飾り窓から床に落ちるまなざしには優雅な調べがともなって陽光に溶け合い、しかも幾分か背伸びした形跡をまるで匂わせず、反対に華やかな青年の持つ美麗な香りだけが足もとから胸のあたりへ漂った。偽装を見破ろうなんて下心を抱く者なぞはおらん、言うまでもない、古風な趣きに包摂される悦びを打ち壊すなんて徒爾であることを心得てたからな。
案の定ジャンは看板娘ならぬ看板少年になった、そして突然ゆくえをくらましたのさ。
二日後に悪びれた顔つきもせず家に戻ったジャンは誰それと喧嘩をしてきた、そう言い張ったけれど、あれは喧嘩の傷なんかじゃない、おそらくおのれでつけた勲章のつもりだったのだろう。わしはその兆しを勘づいておったよ、なに、ひとり波止場で空瓶をたたき割るすがたをよく見かけたからな。あの額の深い傷痕は瓶の破片で斬りつけたに違いない。
それからのジャンは実際に蒸発するまであの通りだったし、、、おっと、わしは遭難したとは信じておらん、あくまで蒸発だ。どこへ消えたって訊くのかい、それがわかるくらいならこんな話しはしないだろうよ」

おさないジャン・ジャックは謂わば素晴らしい環境に恵まれていた。
港界隈における他の子供たちとは別の世界に取り囲まれもて囃されたのは、プルート老人の言にすでに現れている。
しかし骨董のなかの逸品がときに鈍いひかりと鋭いひかりを交互に発するよう、あるいは刹那の感興を数歩しりぞかせる猶予をあらかじめ備えており、それが陶冶による仕業であることを悟らせないあたり、雁行の序列を模した斜の自覚がなにより先んじていたと思われる。
つまり隠顕する妙味をあたえられていたのだ。帰順まで至らなかったわけは傷痕の有無にかかわらず、ジャンが成人するのちまで夢想から逃れる算段をしなかった事実ひとつでこと足りるであろう。
老人は否定するが本当に彼は遭難しなかったのか、その問いに答えるまえにある情景を前面に引き寄せなければならない。仮に魔手に加担し浄福とは異なった色彩に溺れようとも。

ジャンの店は二階奥まで品々が陳列とはいかないけれど運びこまれており、まだ荷を解かれないものまで入れると果たして収拾がつくのかと傍目には覚束なくなる状態だったので、片づけの手伝いとうそぶき(たとえ愛児であろうとも遊び場として解放されなかった)お仕着せの類いではない、心底から夢心地のする飾りはねを物色しては、それらはなめし皮の眼帯だの、今にも朽ちてしまいそうないかがわしい土偶だの、あきらかに壊れている朱色の横笛だの、ねじまがった銀製のスプーンであったが、何より木箱に平積みにされた古書の頁をめくるのがこのうえない楽しみとなった。
整理された書籍は種類別にまとめて一階の脇棚に並べられたけれど、木箱の中身はまだ埃がつもったままで、目を細めては思いきり息を吹きかけ表紙や口絵を開き、怪異と神秘が織りなす暮色の裡に点綴する中紅を浮かべてはしばし時間を忘れた。
ジャンが極めて頻繁に読み耽ったのはギリシャ神話に関する、わけてもゴーゴン姉妹に関する伝説であり、他の妖異譚に惹かれる素振りをわざとらしく示さなねばならないほど、禁断の穂波にとらわれたのである。味到するべきものは絡み合った粘り気であり、恐懼を厭わぬ魔性の顕れであり、頽廃へのあこがれであった。

鏡のなかに現れるたびに細やかな儀式がくり返される。
それが太古の昔から鏡に宿った霊妙なる為業であるのか、自惚の中枢に手をかける所為なのか、あるいは同時に両者が混じり合った結果、毛細血管に指令が下されるよう厳密な、極めて生理的な自然の発露であるのか、その謂れはうらはらに儀式という合わせ細工の機能が一番よく理解しており、ひかりの加減や陰影の満ちかたを深く慈しんでいたのだ。
目の当たりにする自己像の硬直してしまう過程が刹那であるゆえに、石化は歴史を否定する。
まだ年少のジャンが果たしてそうした観念を擁していたのか定かではないけれど、すくなくもプルート老人の説話によって、こっそり胸にしまっていた秘密がいとも簡単に露呈してしまうとは考えも及ばなかった。

 

 

青春怪談ぬま少女〜19(最終話)

あきらめとつぶやいてみましたが、登校2日目なのにこのありさまではどうしたって意気消沈です。
帰りの足取りの重かったこと。その重さに様々な思惑がかぶさってくる。あまりに分厚くしかも煙り状にたなびいているので、あたまがうっすら痛くなってきました。
そんなさなか小さなトンネルみたいなひかりがぼおっと遠くのほうに見えたの。これはひよっとしたら死者の門出、生命の危機にひんした際によく体験するってやつでしょうか。とうにわたしは死んでいるのにね。
えっ、あのひかりってもしかして10年学級の入り口、だとすると、、、お迎えでしょうか、これはたいへんだ、とにかく急いでお家に帰ろう。
ヤモリさんはいないだろうな、きっと。あのひとだってたぶん沼高校の雇われ人なんだから、こんな気ままなわたしの面倒なんかもうみなくてかまわないって言われてるんでしょうね。

食欲は全然なかったけど、冷蔵庫や戸棚の中身がふんわりよそ事みたいに、そう綿菓子がクルクル次第にできあがるように上半身をかすめて行った。これが生存本能によるものだったらたいしたものだわ。
なんてこと考えているうちにかなり早足だったので、お迎えを振り切ったのだと動悸に証明をあたえ、ひとまず無事に帰宅することが叶いました。
実をいうとこっそり抹殺されるなんて怖じ気が生じて、それはそうでしょう、学校側からしてみればですよ、わたしは不穏分子あつかいじゃないですか。誇大妄想と思われてもかまいません、怖じ気は怖じ気です。幽霊は死なないのでしょうけど、意識が消え去るのがとても不安で仕方なかったの。
こんな危機的情況にでもしがみつきたいのだろうか。違う、むこうがわたしを放してくれないのよ、そうだ、これって今日の意見そのものを代弁していると思う。ちょうどこの世界から出して欲しいって願った気持ちとまったく同じで、狂いは狂いなりに正確な道しるべを指し示している。
謀反なのでしょう、たぶん。沼の支配人の逆鱗に触れる謂いだったのね、だからといってわたしは観念するべきなのかしら。飼い犬のように従順に、奴隷にように寡黙に、あやつり人形みたいにせわしなく呼吸しているだけで良しとするの、あの誓いはどうなったのよ、そうわたしを殺した憎い犯人に仕返ししてやるって信念、幽霊としての立場をもってすれば貫けたかも知れない。
でもあやふやだわ、犯人にどう報いればいいのかよくわからないから。憎しみだけではどうすることもならないのよ。忘れていたわけじゃないけど喜びも悲しみも含め、すまし顔の諦観に寄り添うことだけに託してしまって、まるで空砲みたいな響きをあがめるだけで、感情にはふたをしてしまったような気がする。むろん安全弁を胸の底で作動させる怯懦はなおざりにせず。

はっと我に帰ると家に灯りが、、、えっ、ヤモリタマミさん。
そのときだった。校舎の目立たないとこにいた犬の石像がいつの間にあとをついてきたのか、トコトコって脇を歩いている。ちょっといったいどうしたの、あんた、びっくりするじゃない、これしきの魔術が降り掛かったとしても今なら瞠目に値しないけど、目立ち過ぎよ。もう少し神妙な気配をかもして欲しい。
とは言え、一瞬降ってわいたヤモリさんへの期待を忘れるくらいだから、いや、その反対だ、期待が過剰になっているせいで石像が着いてきた。そうあるべきだと願われた。
そんなやるせなさを引きずっている自分が腹立たしくもあり、甘美な哀しみに救いを見出そうと努めている反面も了解した。さながら震える声を聞きとろうとする目つきが虚飾にさいなまれているように。
あいさつのお礼のつもりだったら気にせず学校に戻りなさいね。
わたしは決して言葉にしていなかった、なのに犬は答えたの、なんとひとの言葉を喋ったのです。

「ぼくは番犬なんだ、で、仕事をあたえられた。案内役を努めさせてもらうための」
「案内って、まさか」
「当然だろう、戻るのさ」
「やっぱり10年学級」
はじめて石像に口をきいた途端、からだ中のちからが抜けてゆくのを感じ、あれこれねじれた想念が氷解し、代わりにヤモリさんの不在が明確な影となって立ちはだかった。
「すべてが不幸に結びついているとは限らない、ものは考えようだよ」
犬の石像を凝視する。にわかごしらえの表情に不気味さはなく、その形象に即したふうな疎外された親和がこじんまり整えられていた。
「わたしはものなんかじゃないわ。死んでも人間、まだ少女よ。ところであんたオス犬だったのね、たしかめる手間がはぶけた」
ああ、なにを口走っているのだろう、無期懲役の判決を下されたに等しい状況にもかかわらず、、、手間と悠長は相容れない。またあたまが混乱しはじめたみたいです、これは逃避的思考に違いありません。
すると石像は張りつけたお面の陽気さから、わずかだけ本音の寂しさをもらし、
「オスだよ、わんわん」と軽やかに意思表示した。
「わかったわよ、犬らしく鳴いたりして、もう」
「だって犬だから仕方ないさ」
そう言うと、どうしたことでしょう、それまでの石像の表面はまるでかぶりものだったのか、一気にひび割れ、純白の毛並みをもった愛くるしいすがたに変身してしまったのです。
驚きよりさきに胸の奥底から生暖かいものがこみあげてきた。
「可愛くないなんて、ごめんね」
「ぼくのことを忘れたの」
「えっ、もしかして」

記憶の欠片がより小さくなったり、かと思えば途方もない方角から大きな霧状の束が押し寄せてくる。
ぼんやりしているようだけど、あたま全体が器具で固定されたような不快さと、また逆につかの間だけの安心を得た感触に縛られ、そしてひも解かれては薄もやの向こうにひかりを見いだす。
さっきの失意のどん底とは別の淡く柔らかなかがやきに、わたしは吸い込まれていった。
「シシリーね、わたし生き返ったの」
「ニーナお嬢さま、思い出してくれましたか。でもなんと言っていいのでしょう、けっして生き返ったわけではありません」
あまりに懐かしいシシリーの記憶がつむじ風のように舞い上がった。
「そうね、シシリーのこと、幼い頃だったから忘れてた。わたしは生きているよ。ほら意識だってあるじゃない、どんな意識だろうが、わたしは受信機なんかじゃない、ちゃんと返事もできるし、記憶だって取り戻せる、ニーナ、それが生前の名前なの」
わたしの口調はついに本当の震えを覚えた。
「質問は禁物です」
「やはり厳しいのね」
「あちらのふたりも一緒にお嬢さまを迎えてくれます」
ひかりがあふれたと感じたのは家のドアが大きく開いたからだった。
一瞬退いたけど、ふたりの穏やかな笑みにほだせれ、なにより自分自身の境遇をこれほどしっかりつかみ取った場面がなかったから、わたしも笑顔で応えました。
「お嬢さん、こちらがなまずおじさん、そしてこちらがカエルおばさん」
「わたしら、そう呼ばれていますのよ」
本当になまずとカエルの顔している。でも声はとても優しかった。
「どうもはじめまして、10年学級までよろしくお願いします」
「まかしときないさい。うんと勉強できるよう扉を磨いておいたよ」
「扉をですか」
なまずおじさんの話してる意味は理解できなかったが、いずれ身にしみて分かるのだろう。
「ヤモリさんが料理を作ってくれたよ。お別れがつらいからって帰ってしまったがな」
「そうなんですか」
哀しみにひたる暇はなかった。だってとてもにぎやかですもの、この雰囲気。
「さあ、お家へ入りましょうね」

 


おわり

 

 

 

青春怪談ぬま少女〜18

きのうのこともあり校舎が近づくにつれ多少は緊張するのかなって思ったけど、なんか日々の流れに乗っかっているようで、わりと気安い足音を意識していました。
早くも習慣に毒されたのでしょうか。まあ、わたしの場合10年学級とやらにも在籍していたみたいだし、通学は日常のひとこまなんだろう。
しかしこの森閑とした空気はいただけませんね。大勢の生徒がおしゃべりしながら校門をくぐる光景からあまりにかけ離れている。気がかりといえば人気のなさには不穏な秘密がありそうで、捨てておけなかったけど、考えこんでも仕方ないのでそのまま直進するしかありません。
「やあ、おはよう」
まえの日は見落としていた犬の石像にあいさつした。
たぶん等身大で変哲もない犬種はわからないけどいかにも犬らしい風貌だ。そこは片隅というほどじゃない場所だが、特に目立つ位置でもなかった。それにあまり可愛くない。
けど数少ない教室の他におはようと言える者が見当たらない以上、たとえ可愛くなくとも、ありふれていようとつい近寄ってしまう。好奇心かしら、そうね、そういうことにしときましょう。犬くんまたね、あっ、メスかも知れない。今度たしかめてみよう。
廊下を歩く途中もまったく人影に出会わず、安静患者が息をしているみたいな教室のまえに立った。
はあ~、ほんと深呼吸がよく似合います。おもむろにドアを開けるれば、ちらりと視線が、、、みんなもう着席している。
「おはよう」
「おはよう」
相変わらず3人とも気迫がないけど、幽霊仲間の朝のかけ声としては上等でしょう。
けど、この席どうも落ち着きが悪い。幽霊が幽霊を背負っているみたいな不気味さとでもいうのかな、いやさほど気味悪くないですが、洞穴を背にして立ちすくんでいる冷ややかな圧迫感があって、ようはみんなの目線がわたしの背後に集まっているかぎり、これって居心地はよくはないでしょう。

さて先生のお出ましだ。
今日も思い浮かべられないよく似た女優の名前にとまどっているうちに、清潔な笑みが教室全体へ投げかけられた。絶対に刺のある一瞥をもらうとハラハラしてたんだけど、考え過ぎでしたね。
先生はもし腹にいちもつあってとしたところで表面上は毅然としてるから、わたしは自分の小心に増々縮こまってしまうのです。
不要だと思う点呼を行っていよいよ授業開始、黙って拝聴しますか。わたしの仮装の件は遅かれ早かれだから、どんなお勉強か興味がそそられる。教科書だって配られてないくらいだからね。
「みなさん、今日も昨日の続きです。予行演習ならびに心構えの問題です。あっ、志呉さんは早退したから人一倍精進しなくてはいけません」
精進ですって、大層な言い方ですね、自分から望んで早引けしたわけじゃないのに。それに文化祭ときた。一番目はとにかくわたしでしょうが、早く質問してよ、こっちはしたくても出来ないんだから。
「では志呉さん、仮装の企画はまとまりましたか」
やっぱりはなから直撃です。待ってましたと言うのはどっちなんだろう、なんて下らない念をよぎらせながら立ち上がりました。
「はい、よく考えてみました。睡眠学習もやりました」
すると先生は目を大きく見開き、
「えっ、睡眠学習ですって」と言ったまま、じっとわたしの顔を見つめてる。
一瞥どころじゃない、それは後ろの席にも伝播したのか、声にならないざわめきが両耳を囲い、さらに冷ややかな沈黙へと落ちていった。
威厳でしょうかね、気位かな、それともとまどい、先生はわたしの話しをさえぎったのではなく、とても関心を寄せているのか、詳細を知りたそうな様子があきらかにうかがえた。
しかしですね、わたしはだんまりを決めこみましたよ。質問が御法度なら相手に喋ってもらうしか手はない。
ごほんと咳払いしたのはご愛嬌か、先生はこう尋ねてきた。
「高度な学習法ですが、それでなにを学びました」
真正面からの問いかけだ。
それだけ注意をひく発言だったのだろうか、なんか主導権がこっちにまわってきたような気分になり、瞳にひかりが灯るのを覚えた。といっても後ろの3人のほの暗い気配が束になってどんより足許まで垂れこめていたから、差し引きゼロってことになるわね。
「先生から指導された缶詰理論を考察してみました」
「えっ」
今度はまぎれもなく先生の目が輝いた。
「わたしに言ったじゃないですか、冠は冠、缶詰は缶詰、そこでかなり反省しまして、行動原理主義にたどり着いたわけなのです」
「それはすごい飛躍ですね。で、企画は」
「はい、地縛霊がありきたりで不毛なら、祟りはつきもの、そうはいかぬぞよ、うらみつらみの人情よりか、咲かせてみせましょう、恋の花、散らせるものか、助けておれくなまし、っていう感じなんですが」
いやはや自分でもびっくりするほど、古風な弁舌だったけど、これはおじいさんがよくラジオで聞いた番組だとなぜか記憶しており、不意に躍り出たの。これこそまさに憑き物ですね。
「志呉さん、それって何のまね、昔の旅回り役者のつもりかしら」
「はあ、おじいちゃんのですね、いえ、みなさんが幽霊の役割に忠実ってことを悟りまして、わたしも見習おうかと。そこで怖がらせるのが神髄なら、その反対はどうかと思案したんです」
「なるほど、役割が行動原理だと気づいたわけですね。なら反対とはどういう意味なのです」
「恐怖にも段階があると思います。突然の驚きや、じわじわしのび寄る不安感、得体の知れないおぞましさなど、わたしの恐怖はひとにあたえるのでなく自分の訴えそのものとなるのです」
「どういうことですか」
先生の語勢がかわった。同時に眉間がすこし険しくなる。
「助けて下さい、そうひたすら叫ぼうかと考えました。どうぞここから出してくださいとも。これが真の恐怖じゃないでしょうか」
「まったく、あなたというひとは、、、今日も早退しなさい。今の発言は非常に問題があります。謹慎処分だわ。わかっているの、10年学級に戻ってもらいますよ」
「わたし、そんな悪いこと言いましたか先生」
「とにかく教室から出なさい。追って連絡を待つこと、以上です」
一瞬、目のまえが真っ暗になったけど、思えばすすんで墓穴を掘ったようだしここはあきらめが肝心。
不意に犬の石像が脳裏に鎮座した。そしてメデューサの髪の毛が逆立つ幻影が現れたのです。

青春怪談ぬま少女〜17

空腹だったのかな、いや違うわ、それほど食欲はなかった。
ならどうしてなんだろう、食べもので釣られていないはずなのに。
ヤモリさんの顔つきはあの優しい笑みを取り戻しているし、わたし自身の気持ちがあやふやなままなら、冷徹な目線はとりあえず引き下げたほうがいい。
学校だけでなく何もかも懐疑だらけなのはやはり負担がありすぎて疲れてしまう。
とうに開き直ったつもりでいたにもかかわらず、そして野となれ山となれなんて古くさい言葉をかつぎだしてみたけれど、所詮は悪あがきしてたのね。
とらわれの身だとしたところで、また恐ろしい策謀のさなかで息をしていたとして、帰りを待ってくれている人がいてくれるのは救われる。たとえ飼い殺しにされる運命であったとしても。
なんか牛や鶏の気持ちが乗り移った気がする、それはあくまで一瞥をくれたあとの残像にからみつく、不確かで逃げ切りやすい、すでに過去形を抱え込んでいるような感じだったけど。

ソース焼きそばはとてもおいしかったわ。
紅ショウガの赤みはただ単に彩りだけじゃないのね、口のなかで少しピリッとしたとき、わたし泣きだしそうになってしまった。それにワカメのお味噌汁を味わったら、急におにぎりが思い浮かんできて、もうお腹いっぱいなのに食いしん坊らしく自分を微笑ましく思ったりしたの。
で、あとはすでに日常の仮面に覆われ時間は淡々と過ぎていった。
お風呂も沸いてますからって、ヤモリさんの柔らかな布でくるまれたような声を聞きながら、どうしたわけか、その顔から目をそらしてしまい、すねた子供みたいに膨れっ面をし反感からの距離を意識しているにもかかわらず、どうか独りぼっちにしないでほしいって淡く願っていたわ。
青白い炎がそのゆらめきを瞬時に覚えたがらないごとく。
しかし職務をまっとうしたあとの踵の返し方って、嫌になるくらい理解していたつもりだったので悲嘆にくれるほどではなく、明日のことを考えると些細な感傷に溺れている余裕がないのがはっきりして、そう、この先々の気がかりを留め置きたい心細さに他ならないって思えたから、歯をかみしめる調子で黙ってヤモリさんのあいさつにうなずき、遠ざかる足音にうなずいた。
ドアが静かに閉まる音はすでに切り替えの合図らしく耳に届いた。
さあ宿題しないと、、、でも授業内容を聞かないまま早退してしまったんだ。う~ん、仮装は次回までって先生は言ってたけど明日だったらどうしよう。何事が起こるやら分かりませんからね、しっかり案は練っておかなければいけません。
とか念じながらお風呂に入りました。
長々とからだを沈められるかなり優雅なバスタブ、これはお気に入りですね。うっすら額に汗がにじみだした頃にはまだ形をなしてないけど、どうやら投げやりな気分とリラックスが相まって、湯気や水滴にこもったひかりの粒子が微かな色彩を帯び、まあ楽観的に落ち着き始めたってことでしょうが、とにかく仮装の構想を稚拙な手つきながら描かれそうに思えてきた。クレヨン画でなぞる他愛もない落書き。
地縛霊が禁忌でそんなに生々しいのだったら、もう少しくだけた感じがいいわね、妖怪ウォッチとか口裂け女っていうのはどうかしら、でも既成のキャラを使うとまた文句言われそうだし、ここはひとつシンプルにシーツをすっぽり被って、うらめしや~ってことでお茶をにごしておきましょうか。
まてよ、たしか他の生徒ってあの男子以外は特に変装なんか口にしてなかった。たたずむだの、脱ぐだの、抱きつくだのってけっこう行動的じゃない。やはりそこに意義があるのかも。男子は怪しい雰囲気づくりをって話してたもんね、わたしみたいにただ漠然と地縛霊じゃ、ひねりがないと叱られて当然かもしれない。
そうか、なるほどそれで先生は目くじらをたてたわけなんだ。だとすればですよ、シーツを被っただけじゃ能なしってことになりますね。
よく考えてみるとみんなふざけた趣向をもの怖じせず発表してたけど、それなりに気合いが入っているように思えてきた。
つまるところ幽霊としての存在感をアッピールしよう、そう努めていたのだから、わたしの言動はふてくされたいい加減な気持ちしか含まれてないってことになりますね。これは根底から意識をあらためなくてはいけません。文化祭です、たぶん多くの見物客が訪れるに違いない、えっ、早とちりではないです、生徒4人だけの学級祭りなんて想像できないし、先生の意気込みだってあきらかに来賓とか念頭に入れてのことだろう。
まっ、明日学校でそれとなく探りをいれたら、おっといけなかった、探りは質問と同様でした、ここは隠密に悟られないように窺うしかなさそうね。
あれこれ思惑をめぐらせていたらお湯にのぼせてしまったのか、少しめまいがしたので早々にベッドに横たわり、行動的粉飾の詰めをしながら眠り落ちたのでした。
はい、企画倒れをまぬがれそうな考えが一応まとまり、スヤスヤと深い闇にのまれていったのです。
ひょっとしたら夢が窮地を救ってくれたのかも知れない。うとうとし始めるまえにひらめいたのか、その後なのか、実際よく覚えていなかった。まあでも案ができあがったからよしとしておきましょう。

翌朝の目覚めは爽快でも不快でもなく、おそらく生きていた頃の朝とかわりない日差しが朗らか過ぎて、どこかよそよそしい空気をまとっているあの感覚を想い出しました。
そしてヤモリさんが来ていないことに心もとなくなり、昨日あんなふうな言い方をしてしまったからだと後悔しながら、お味噌汁の残り香が一層静まりかえったこの部屋にこもっているようで、朝の光景は決して元気をさずけてくれはしなかった。
でも仕方ないわね、自業自得ですから。帰ってきてヤモリさんがいてくれたなら、ちゃんと謝ろう、うん、それで決まりだ。
では支度して学校へ行きましょう。さすがにもう早退はないと思うとなんだか可笑しくなってきました。

青春怪談ぬま少女〜16

「地縛霊ってそれ、、、」
わたしは挑むような目つきで先生の顔をうかがった。
「志呉さん、あのね、さっきもお話した通り、あなたはすでに霊なんだから、その言い方は少し変だと思います」
「じゃあ、人間を人間って呼ぶのもおかしいのでしょうか」
「人間は生きてます。まったくあり方が異なってるの分かりません。先生はふざけたことは嫌いなの」
「そんなつもりで言ったんじゃないです。霊にだって色んなタイプがあるだろうし、地縛霊を選んだにすぎません」
「でもねえ、わざわざ、冠を被りなおさなくてもいいのでは。文化祭のテーマが変容ってくらい分かっているでしょう」
「わかりません」
自分でも語気が荒くなるにつれ、高ぶる感情が反抗的な方向になびいてゆくのを感じる。
「困りましたね、扉学級で体得したものは意識の表層に上ってなくとも、しっかり根づいているはずなのに」
「そんな自覚なんか、わたしにはないです。10年間の結晶があるのなら、しっかりこの目でひかりを浴びてみたい、それとも光源がない代物なんですか」
先生の面にやや焦りの色が出てきた。
悟られまい素振りをしてるけど、眼球がキョロキョロしはじめた。それを懸命にこらえ返す言葉を探し求めている。大丈夫、巻き返しを受けるまえに今度はわたしが攻める番だわ。
「それに他のひとたちの意見だってふざけていると思います。抱きつくだの、裸になるだの、女装するだの、仮装のおちゃらけが常識なら、わたしの言い分はかなりまっとうじゃないですか。どうして霊らしく神妙に振る舞ったらダメなんでしょう。当たり前すぎて面白みに欠けるから、それとも何か不都合があるからなのですか、先生」
ひと息止める。
なだめすかすふうな声色で返答されたらすぐに言葉をつなぐ用意はあった。でも先生がどう崩しにかかるか具体的に考えてはなかった。それでいい、衝動はわたしを奮い立たせ、底力を発揮するに違いない。これでこそ修養の結果よ。
「よく聞いてほしいの、面白みの問題ではないのです」
予想した声遣いだ。
「なら何の問題ですか、問題には答えがあるはずでは。わたしが地縛霊だといけない根拠を教えてください」
ふたたび先生は間合いをとった。内心怒りに震えてると思う。ただ単に我慢強いだけなのか、それともプライドが邪魔してるのだろうか、考えは突風にあおられた洗濯ものみたいにはためき揺らめいたが、そんな推測に凱歌の訪れを先取りしてしまったのがいけなかった。

無鉄砲な態度は所詮、不安要素のかたまりに点火した冷たい炎、熱くなっているのは空まわり寸前の胸のうちだけ、あら探しでもなし突き抜けられない言いがかりには限界がある。
わたしの不穏なこころの動きはまるで障子に透ける影絵のように、駄々っ子が放そうとしない怖れを、取落ち着きのなさを映していたのだろう。自分でも気づくくらいだから先生からしてみれば、さぞかし勝機を得たと息をのんだはずだわ。
そして抵抗を演じなければならなかった心細さが露呈するに及んで、形式であるかのごとく敗色に青ざめるより仕方がなかった。
叱責の文句は教科書を読み上げるよりたやすくあたまの中でなぞれたから。
「あれこれ質問してはいけない」
いえ、決して忘れてはいなかった、逆に過重な教えとして念頭に居座っていたから、摩擦熱を欲するに似た投げやりで甘えを含んだ気構えになってしまった。やっぱり幽霊って冷たい感じがしたほうがお似合いね。

急に目線を下げたわたしに対する処罰は美しい様式に則っていた。
他の生徒たちの吐息が微かに背中に届いてくる錯覚さえ生じ、教室内にはもとの厳粛な空気が流れこんでいる。それは先生に最初に出会った場面へと立ち戻された緊迫をはらんでいた。
「志呉さん、ちがう仮装を考えなさい。悪いとか悪くないではないの、さっき言ったように冠は冠、缶詰は缶詰、中身はそれぞれよ」
ひどいたとえですね。はい、わかりましたよ。すっかりしょげきった振りをするのが精一杯の反撥、
「すいませんでした。でも今すぐには思いつきません」
「次の授業まででよろしいわ。今日はこれで帰りなさい。気にしなくていいのよ。今日は始業式みたいなものですから」
みたいなものってどういう意味、邪魔者、敵対者はよからぬ影響をまわりに与えるってこと、ええ、そうしますとも。ただしあくまでわたしは地縛霊になりきるつもりですからね。
「みなさんに挨拶を忘れないで」
「それではさようなら」
「さようなら」

なんなの、どうしょうもない気抜けした調子、でもよかった、あれからの時間は針のむしろだったかも知れない。そんな思惑と一緒にたちの良くない悪戯をしてしまったあとの後悔が、じんわり押し寄せてきた。
すると疑心が待ってましたという調子で登場して、あの10年学級はやはりお仕置きだったではとか、問題児専門の収容所に相当するのだろうなんて暗雲を呼び込んでは、明日からの登校が早くも気怠くなってくるのでした。
こんな日って過去に経験した悔しさで後押しされ、無性に寄り道したい衝動が立ち上がったけど、どこへ行くわけにもならず、ひたすら夕暮れには早すぎる足どりへ憂心をまぎれこませながら、まっすぐお家に戻ったの。
心痛は心痛なのです。が、行きも帰りも決してさかさまじゃない無機質なこの風景を背にしては、痛みのありかさえ芒洋でたどり着けず、善くも悪くも曇天の鈍さにのみ込まれていった。
やがて玄関先にわたしの影がうずくまると、家の中にひとの気配が、、、

「おかえりなさい」
えっ、ヤモリさんだわ。たしか初日だけって話していたはずなのに、どうしてかしら。
疑問符が飛び出すと同時にあの野菜スープの匂いが鼻をくすぐった。で、家に入り鼻をこすりながら訊ねましたよ。学校での件も手伝ってか自分でも感心するほど冷淡な口調で、
「おかしいですね。帰りを待っていてくれるなんて。どういう風の吹きまわしなのかしら」
言葉がついて出たとたん、ヤモリさんのひかえめな顔にすっと暗い影がおちるのが見てとれた。
指令とも演技ともつかない哀しみを帯びた表情が床に映りこんでいる。後悔なんかしない、そう意思を強く抱いたけど、騙されてもなお異性に委ねる心情みたいなものが妙にまとわりついてくる。ずいぶん大人びた言い方ですけど、そうなんだから仕方ありません。
「今日は早退されたと聞きましたもので」
ヤモリさんは消え入りそうな声で返事した。
「はあ、それにしても」
わたしの受け答えもトーンが下がる。
結局信頼にまで至らないのは、彼女もまた沼の支配人によって派遣されていると考えてしまうからで、かといってまったく疑心暗鬼のまま油断なきよう構えているわけではない、逆に不審を募らせる悪心がうまく緩和されていたと思う。
すでに何年もこの家で暮らし続けているような口ぶりだけど、まさに日没間際のおだやかな気配に辺りが包まれだした心持ちをこばめなかった。あれほど荒涼だったのに。
「今日の夕食は肉と野菜がいっぱいのソース焼きそばです、ワカメのお味噌汁と」
してやられた。
なんなの一体、気分なんてまったく当てにならないわね。すべてはぐらかされたんだろうけど、不思議とお腹から胸にかけて、じんわり暖かなものがこみあがってくるのが怖いほどよく知れたのでした。