美の特攻隊

てのひら小説

恋の十字架〜12

三階の一番奥、部屋の前にならぶ姿でふたりしてドアを開ける。

実際には清也がややぎこちなく上着の内ポケットから鍵を取り出し、弁当の包み袋とハンドバックを手にした葉子を中へと促した。ふたりしてこの部屋から歓待を受けたのだ、そんな思いがせり出す。

玄関先で靴を脱ぎ部屋の明かりを灯すと、こらえきれなかった互いの胸に渦巻いていたものが、光を求めて奔流になって溢れ出てきた。

手にした荷物をテーブルの上にのせると同時に、それらが重荷であったみたいだと清也はとっさにそう思った。葉子がこちらをまっすぐに見つめている、彼もその視線を逃さないよう努めた。それもつかの間、葉子の目線はうつむきかげんになり、その傾斜に沿って大粒の滴がぽたぽたと両眼から頬をつたう猶予もなく、床に落ちていった。

予感はこんなに見事に適中するのか、運命と呼ばれるものを憎みながらもその現実を避けてはいけないと決心し、葉子を引き寄せながらやんわり包み込むようの抱きしめた。

「知っているよ、別れを言いに来たんだね、時間はある、さあ、そこに腰掛けて」

出来うる限り、動揺に身をゆだねないで、上滑りしていく自分に何とか言い聞かして、今は気持ちの高揚を抑えられるだけ抑えて落ち着きを失わないことが大事なんだ、、、葉子の想いを、言葉を、瞳を、涙を、今は受け止めてなくては、、、

灯された蛍光灯の明かりがいつもより、まぶしく感じた。失意のどん底では眼の前が真っ暗になるとか聞くけれど、本当は青ざめ氷ついたように醒めた光沢を放っている。そのひかりを通して清也は奇妙な能力を得た。

妄念が引き起こす、あるいは自己保身による反射鏡で世界を単一にしてしまう、透視眼であった。

 

 

清也の葛藤とはうらはらに、葉子は自分に対してこんなに柔らかに接してくれる態度から、彼の心の悲しみをおもいはかってみたが、例えようなくつかまえどころないと感じ、それはわたしが落涙の真っ最中のだからうまくとらえられないのだと、あきらめの静かな笑みをほんの少しだけ生みだし、それから淡雪が積もっては消えてゆく白銀の野を想像した。

見渡すかぎりの一面は大きなこてでなで付けたように、けれども自然の大地の起伏には逆らわず、そのままの盛り上がりで、くぼみも同じくそのままに優しくなぞっていったふうに雪景色はきらめきながらどこまでも続いている。

はらはらと粉雪が舞い、遠近感を忘れさせようとしている。どこまでも続いてゆく、、、遠くの山々のむこうもこんなに真っ白なのだろうか、、、幼い頃、ある朝母親から外を見てごらんと言われて、庭先から前の道路、近所の家々の屋根まで純白に変貌していた光景が鮮烈によみがえる。

一晩の間に誰がこんな仕業をしていったのかと、訝りながら底知れない恐れと魅惑が同時に胸裏にわき起こったはじめての体験、、、しばらく呆然と立ち尽したままだった、、、雪国の世界に迷いこんだはずだったが、白銀の照り返しがすでに始まっていることを感じとれなくて、すっかり眼が光彩に奪われてしまい瞳孔が拡大していくのが分かる。

 

 

葉子がしきりに瞬きしたのは、雪の精に魅入られたおののきに慌てて我に返ったからだろうか。

そしてこう言った。

「わたしには帰るところがないわ」

清也のまぼろしも白い吐息となって霧散した。が、夢は現実を駆逐して止まない。

「えっ、今のは誰が言ったの」

その瞬きにより涙で曇った視界が一気にひらけたようだった。

清也が手渡した白いタオルを両手でしっかり握りしめている。思い返したといった仕草でぬれた眼元をぬぐい、わずかの間だったかも知れないけど遠い別世界をめぐってきたようで、眠りから覚めた時みたいにまわりへゆっくりと眼をやった。

 

見慣れたテーブルがすぐ前に、暖色で覆われた特徴のない何色だったかも思い出せないカーテンが、今夜は黄土色であることを主張している、そうしっかり識別できる。

テーブルの横に座り込んでいる本当に小さな冷蔵庫はどこにでもありそうな小型で白いもの、だけど小さすぎて今は反対に目立っているわ、、、テレビの上に置かれた赤い縁取りの四角い時計、これ目覚まし時計かしら、、、葉子の虹彩が今度は収縮しそこに視線がまるで一本の糸でピンと張りつめられた。

じっと見つめる、時計の縁は赤かったが次第に地と図が転換するあのフォーカスが起動しだした。

耳をすますと秒針の移動がはっきりと聞こえている、その時を細かく刻むリズムが視覚と完全に一致した、、、八時五分、カーテンがひかれてない窓の方へと自然に大きく首をひねった、、、雪なんか降っていない、そうよ、まだ冬仕度には早いだろう秋の夜、、、そう確認するとひねられた首は元に向きかえられた。

そこには寂しい思いをこらえている子供みたいな顔をした清也が立ちすくんだまま、見つめかえしているのだった。