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美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜33

親子が取り残された室内には不穏な気配も然ることながら、一種の空隙が特異な様相で現れ、あたかも大きくひろげられた断面図に阻まれたような息苦しさを覚えさせた。
しかしそれは、見ることも、聞くことも、嗅ぎ分けることも、触れることも叶わず、真空状態が部屋に充満しつつあるような感覚だけにとらわれていた。
深沢夫人があらわにした奇矯な表情に息をのんだのはわずかの間だったが、その隙に砂里が姿を消し去るように外へ出ていったのを、ふたりはどうした事態だったのか認められないまま肩をこわばらせるしかなかった。
「なにも言わずに駆けていった」
純一は唖然とした声色でつぶやく。
「きっと急な連絡だったんだよ。気になるなら様子を見てくればいいじゃないか」
孝之の口ぶりも確固とした助言とは言い難く、そのあとに続く言葉があやふやになってしまうのを半ば自覚していようだ。
ふたりは顔を見合わせる仕草さも避けたい心持ちだった。

真空は物質を腐食させないのだろうが、ここにある精神は間違いなく蝕まれる寸前である。今すぐにでも美代がすっと面前に現れ、身構える猶予なき情況が恐怖のみで構成されるのだ。
慇懃な挨拶など墓穴に生き埋めされるごとく葬られ、砂里への懸念は闇夜の突風で吹き消されて、邪視に魅入られるのが対面の礼式であるかのごとく、なすすべもなきまま緊縛を甘んじて受け入れるしかない。
亡き主人の魂魄が真空に揺らいでいるようで仕方ないのは、夫人の異様な笑みと、ひとりの女性がこの場からいなくなっただけで惹起されるのか。おそらくそれだけではあるまい。
吸血鬼、、、つまるところ吸血鬼をどこかで怖れてしまっているのだ。口先では精神病理学的な接触が最優先されるべき可能性を謳いながら、こころの底には得体の知れない不安が燻りつづけている。
深沢の言った学術的なるアプローチの陰には、彼が研究していた呪力と呼んでいい魔の刻が張りついているに違いない。やっと今、秒針を刻む音が聞え出した。
果たして怖れに対し素直に応じる心構えだけでこの家を訪ねたのだろうか、、、願っているのは恐怖のもうひとつ裏に潜んでいる別の影かも知れない。
目くらましのようなつむじ風が脳裏をめぐると、動揺が少し治まり真空に心身を投げ入れている現在が軽やかに思えてきた。

「以心伝心って奴かな、おまえ気色が悪いじゃないのか。おれもそうだ、ここの空気にはふだん感じることないものがある。しかし、もう怖がらなくていい、悪霊などではないよ、ひとの霊だよ、生きた人間の霊魂だ。そう念じたほうがいい」
「つまり合理的に考えろって意味」
「ああ、でもそれほど深く考えなくてかまわないよ。激しい感情は伝わりやすいけど、その他の思惑やら想念は自分自身以外やはり理解不能であるってことだから」
父の目もとにほのかな明るみが灯ったのを見届けた純一は、
「だとすると自分の霊は感じないってことになるね。それでかまわないの」
少しばかり投げやりな口ぶりそう訊いた。
「今はそのほうが賢明だってことだよ。そうじゃないと折角ここまで来た甲斐がないから。異様な空間に抱かれ、奇怪なる女性とまみえる、それでいいじゃないか」
「わかったよ。やっぱり砂里ちゃん気になるからちょっとみてくる。たぶん玄関先にいると思う」
純一の面にはいつもの若々しさが戻っていた。部屋から出てゆく後ろ姿にも気概が感じられた。

魔の刻は絶え間なく孝之に呪文をささやきかけたし、真空に充たされた錯覚はその由縁を手もとまでたぐり寄せて、室内の間隙を埋め尽くしてしまったようで、もう息苦しくはない。どうやら舞台装置が整ったらしく断面図は仕舞われたのだろう。
純一が口にした「自分の霊」と云う言葉に促され人体模型図の、内蔵や血管、筋、骨などがあからさまに浮き出し屹立する様を想い描いてみれば、笑みがこぼれ落ちるくらい世界が揺らいでいるのを疑似体験したかに感じた。
現実の時計も絶え間なく秒針を刻んでいた。二時まえをさしている。
この家に着いたのが一時十五分、これは孝之の腕時計でも、書架の片隅に掛けられている幾分古くさい銀縁をした丸い壁時計でも確認された。
純一が砂里を気遣って部屋を出てから三十分になる。美代にしても姿を見せるのを恥じらっているのか、それともただ焦らしているだけなのか、いっこうにドアが開かれる気配はなく、あたかも自分ひとりが置いてきぼりくった心細さを追い払えないまま、浮遊する意識に寄りかかるしかなかった。
時間こそが魔物かも知れない。いつもあくせくしているのはほとんど時間のお陰ではないか。
夫人の顔つきひとつにおののいてしまい、整合的な記憶を模索して躍起となっていた。しかしながら酔った気分がもたらす高揚はそれくらいの経過には泰然と立ち向える。その根気を養う気力が反対に緊張を強いるからだ。
よからぬ事態がちょうど気体になって棺の中から煙りだそうとしていた。幻想小説を読み耽りながら、実際にぼやを知るような時差をともない。
それは寸秒の時差だった。「二時をまわったらおれもこの部屋を出てみよう」

ぼやは火のまわり方次第で取り返しのつかない惨劇がもたらされる。しかし孝之はあくまで律儀に道ゆきをなぞってみるのだった。

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