美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜42

孝之の悲願は見世もの小屋に遊ぶ心理と比べてみてどこも遜色がなかった。
初秋の午後を吹き抜ける一陣の風に夢を託す。季節が人々を培う風景は凡庸であることから解き放たれ、ときには信じられないほど美しく輝く瞬間を秘めている。
陽子の出現により挫折しかかった夢をもう一度呼び起こすのだ。暗幕垂れ込める人工的な黄昏にこそ宵闇が迫ってこなければいけない。神々の黄昏にも終曲があるように、永遠の日暮れを愛し続けることは徒労に等しいのか。夜の気配を粛々と招き入れる精神だけが、かまいたちの発生を見抜ける。闇からの送りものである刃で傷つけられた肌には奇跡が起きるだろう。
美代の顔立ちに魅せられた陽子の心情も今となっては古色蒼然たる民家の一室に眠っているだけである。
勇敢なほど現実家である陽子には、ろうそくの灯火はもちろん夜気の余情も必要あるまい。そう思いなすことが孝之の矜持を甦らせ、夜の刃で一息に切り捨てる気概を推進させた。美代を取り巻く暗澹たる領域が腐食されないうちに行動しなければ。燦々とした陽光は墓標に活力をもたらす。奇跡的な再会などでほだされてしまう前に時計の針を止め、姑息な追憶に終止符のくさびを打ち込むのだ。
独善的であろうが、利己的であろうが、夜の川底にもう一度立ち返えり、深沢にも美代にも別れを告げる。

塚子の面持ちが微妙に変化を遂げた。もの言わぬ指針計、この部屋で最高の調度品である。
孝之は迷妄の地図を大きく広げ、あたかも大理石の床を気品ありげに歩く動作へとすべてを委ねた。風の音が窓をわずかに震わせる。落ち葉が親し気に頬をかすめていく。美代との距離は一気に狭まるはずだ。
すると、大理石と見立てられた床に触れる靴音から華やかな音楽が聞えて来た。小刻みにせわしく、大胆に子気味よく、一陣の旋風がそこに奏でたのは、まるでフレッド・アステアの踊りみたいに優雅で華麗なリズムだった。
ほどなくしてろうそくの明かりはかき消され部屋の階調が下がる。
美代の瞳に巣食っていたひかりは異次元へと帰ってゆき、棺に収められた眼光を呼び覚まそうとしている。孝之は躊躇なく美代を抱えこむと、まったく抵抗のないしなだれた反応にためらいを感じたが、このからだを逃すまい、そう念じてから首すじに狙いを定めたところ、意識の狭間を縫って急速に回想が生じはじめた。
それは深沢と同じ振るまいを演じているのだと云う痙攣であった。他の者らの当惑は一切関知されなかったし、ほとんどの感覚は荒野に仰臥するかの自棄で守護されていた。いよいよ左の首に歯形を押しあてる瞬間になって、暗鬱とした美代の目がじっと孝之の面をにらんでいるのが知れた。さらに回想は押し寄せる。
「そうじゃないの」
幼い美代が耳もとにそうささやきかけた。とまどう久道、つぼみのようなくちびるがなめくじのごとく動きだし、赤い幻想となって妖しさを増す。硬直は避けられない、もはや反逆せず同様なる轍をここで甘受する。

「わたしの血をすすったのは陽子ねえさんだけでした」
乾いた声が孝之の衝動をいさめるよう、謀反をとがめるように耳の奥へ響いてゆく。はっと我に返る猶予は寄贈されたものになっていた。その証拠にするりと身をかわした美代の手には果物ナイフが握られているではないか。一気に酔いの醒める感覚が全身に浸透するのを待ち受けていたと思われる。
次の瞬間、左手の甲にナイフの切れ込みが入る。それほど深くはないがくちびるの大きさにあてがったと判じないわけにはいかない切り口。暗がりに映る手は照度には無縁であるかのごとくとても透けている。線上に滲み出す鮮血は何ともほどよい流れになって指先まで伝ってゆく。
美代が執り行なった儀式は紛れもなく孝之に捧げられているのだ。
「さあ、わたしの血を含んで下さい」
無言だが、そうつぶやいているとしか思えない。社交ダンスの始まりを彷彿とさせながらも、その要領を保持し血染めに映える純白の手をとれば、冷ややかな体温が心臓まで浸透していく。爪先まで達し床にしたたろうとしている血を遂に口にした。
夢遊病者の容貌で腕を差し出す美代、狂信者の風貌で生き血を吸う孝之、ふたりの邪魔をするものは夜の支配者によって厳かに監視され、迷妄で広げられた地図上に赤い標が浮かび出すのを見届けている。無心なる吸血が途絶えることのない鼓動に即しているかのように、生命の証しは寸分の狂いもなく脈打っていた。
あらゆる液体の感触にはない禁域の泉からくみ出される甘露。真紅に焼けついたにもかかわらず止めどもなく溢れ出す過剰な水脈。
孝之は味わうことすら忘れた虚ろな目で厳粛なる時間に従った。こころのなかは充たされることもなく、枯れることもなく、ひたすら無我の彼方へ導かれる微風だけを感じとった。はためくものが何であるのか見極められないまま、目にも見えない、耳にも聞えない、口にも出せない、風に運ばれてゆく透明なのりしろのような想念だけがよぎる。
寸陰でしかなかったろうし、喉を潤すに足りるはずもなかった。終止符は打たれたようだ。純一の叫びを、陽子の悲鳴を、砂里の悲泣を、塚子の凝視を受け取った。

年少の美代、あの日膝上まで伝った初潮が必然であったとしても、不浄な気分に没することから解放された瞬間、、、孝之の殺伐としたこころに、それが原風景となって映しだされた。