美の特攻隊

てのひら小説

  オートマチック

 

もう随分まえに帰省したとき、お姉さんには話さなかったけど、背筋が思いきり凍りついたことがあったの。

精霊流しの晩、わたし一人で港まで歩いた。それまでは家の誰かが供養に行ってたのでしょう、でもあのときはお姉さんも居なかったから、ほとんど呟きに近い声だったけど、お母さんにお願いしてみると「じゃあ、頼もうかねえ」って穏やかな笑顔が、湿気を含んだ夏の座敷に小さく広がったわ。

幼い頃おばあちゃんに連れられた想い出は確か、山側に架かった夜の川だったから、お盆に海岸へ足を運んだのは始めてだったけど、海に供物を流すなんて今の時代ではもうあり得ないのは知ったし、お母さんにも手順を聞かされていたんで、久しぶりに目にした夜景は朦々とした線香にもかかわらず、不思議に懐かしく感じられてね、たぶん花火大会の人出を思わせたんじゃない、立ちこめた煙にまぎれる人影がにぎやかだったから、打ち上げがはじまる前の雑踏に呼び戻された気がしたのよ。

見慣れた大通りを歩いていったんだけど、ああした儀礼って祭りじゃないので気分は華やいだりしない代わりに、花火の炸裂があべこべに閉じられているみたいな、かといって勢いが押さえつけられ、くすぶってしまっている感じじゃなくて、何かこう、夜空が悠然と地面に降りている、そんな当たりまえなんだろうけど、普段よりも神経が敏感になっている自分に気づいたりしない。違うの、変に細かい意識がざわめきしたりせず、もっと大らかで静かな気配に包まれているってことよ。例えは妙かも知れないけど、すごく香りのいいお茶をひとくち戴いて酔ってしまう、だからもちろん気持ちはしっかりしていて、酔い覚めを知るまでもなく、ごく自然に踵を返すことが出来る。

あの晩は少しだけ、まだ夜景のなかに佇んでいたい気がした。近所の人や見覚えのある顔が通過していくのを見つめていたいわけでもなく、読経に呼応する潮風の匂いを確かめてみたいのでもなかった。

でも、おそらく懐かしさを留め置こうとしただけだから、わたしの影は用が済むと実際にはすでに港から遠ざかっていた。

夏の宵は切ない幻灯機よ。だって家を出た時刻は他の季節ならたっぷり暮れているのに、まだ辺りはうっすらとしていて、まぶたの裏に灯りが残っているようで心地いいけど、一気に暗がりの帰途へ進んでいくもの。わたし、やっぱり余韻を引きずりたかったみたい、青々とした海の色を眺めれなかった代償をその場で清算したくなった。逆だと思うでしょうが、深い闇は白々とした感情さえのみ込んで、すぐに吐き出してしまう、わたしはもと来た大通りをはずれ、河口に沿った夜道へ向かった。

街灯もまばらで右手には墓地といった寂しさだったので、あまり気色よくはなかったけど、この付近を散策するなんて中学以来だし、不意に鮮明な記憶がわき起こったり、夜風が間違いのように冷ややかだったりするものだから、さっきの酔いがもう一度めぐってきたみたいで足どりは軽快だったわ。

星を見上げる余裕はなかった。帰路を急ぎたくない思いと歩調がうまくかみ合っていないせいだろうか、民家の乏しい灯りは増々心細くさせる使命を果たし、踏切の位置がようやく認められたとき、わたしはその先の木立を一心に見つめていた。

真っ白な反物らしきものが宙にゆらゆらと浮かんでいる。胸のなかにぽっかり空いた夢の場所、早まる夜の流れ、微笑がこぼれている、そう強く念じていた。

 

  

  幽霊

 

きまじめな光線の加減で少女の表情は愁いを作りだしていた。しかし、その瞳の奥には明らかな無関心が優雅に息衝いており、長いまつげは予想したより見事な隠匿を発揮している。また目尻から頬にかけて遠い惑星を静止させたふうな極めて程よい大きさのほくろが並んでいて、いくつあるのか数えるのが無意味に思えてしまうくらい、自然と調和していた。

少女の笑みは誰からも賛美された。時折きまぐれの灯りが小さな面をとらえない限り、悲哀は本来の役割に忠実であるべく循環を絶やさず、もっとも年老いた蝶と悟られることはない。たとえそう知られようとも、そのすがたにより却って人々は感嘆し、深い叡智にふれたときのごとく少女の容貌を愛でるのだった。

世界中のあらゆる花びらが一カ所に舞いおちた。どんな口紅もその発色を再現できなかった。同じことが少女の全身に見出されるに及んで、大方の形容詞が効力を失い、器用な比喩はいつも疎遠であり続ける運命を強いられた。ただ、人々は愁いに結ばれているはずの口もとからそっとのぞく、もの言わぬ吐息に促されている。雪の結晶を顕微鏡で観察するこころが何のためらいもなく育まれたとき、少女は例のもの悲しさを優しくあらわにして、清涼水のような視線を流すのだった。

いつか魅せられたひとりの青年がこんな質問をした。むろん彼は蝶の羽ばたきをよく見極めているつもりである。そして老醜についても。

「どうしていつまでもそんなに美しいのです。生まれかわるからなのでしょうか」

幼虫の脱皮がくり返されるとでも言いた気な声色であったのは仕方ない、そう尋ねてみたかったのも無理がなかった。少女の影は青年のすべてを被っていたから、繭の本能に基づいて。

 

 

  顔

 

吸血鬼になりたかった。数百年も生き永らえてきたのならば、もう永遠を手にしたと言える。

「地球、いや宇宙の進化から比べるとケチ臭いな」

そう死霊に反駁された男は自分の宿命を呪った。だが、ふとこう思い「なるほど、人類の歴史などたかだかしれている。どんな死に方、いや失礼、生き方をされたのやら、あなたもひとの霊であるなら、ましてやこの世に浮いて出てくる馬力と念を備えているのなら、そう古い存在でもあるまい」

「存在論などやめておこう、ただし永遠なんて気軽に口にしないでもらいたいね。吸血鬼なんか、何度も退治されてるんだ。その時代ごとにもの好きがいて復活の儀式とかやるから甦るだけさ。あれは欧州のロマネスクだよ」

「化石とかの歴史よりはまだ血が通っている」

「だから血を吸いたがるのか」

「そうかも知れない」

「ならそうすればいい、さあ私の生きた時代など語ったところで学者以外は喜ぶまい」

男は逆転の瞬間を実感し、こう吐き捨てた。

「あなたが霊であれ、ぼくの妄想であれ、見失えば寂しいものだ」