美の特攻隊

てのひら小説

霧の吸血鬼

陰にこもった雨が降り続けているとか、午後の日差しが際立って秋めいているせいだとか、夕闇がせまってくるのをまるで深い洞窟へと踏み込んでいるように錯覚してしまうとか、虫の音がか細く仕方なく感じてしまうやら、別に季節がはぐくむ時間のうつろいによって想い出が浮遊するわけではない。

情感に即す日々の美しい仕掛けは、如何にもまぼろしを称えているかにみえるが、うらはらに決まりきった裁断から繕われる記憶の文様にすぎなく、色彩ひとつひとつ美にとらわれ、ちょうど様々な色の積み木を組み立てている幼稚な手つきとも言えるから、大切なのは崩れた積み木のほうだと思うのだけども、どうだろう多津子さん。

あなたはとうの昔に忘れてしまっているかも知れないが、幼稚園の帰り路、何度も「ここだよ、ここでぼくは見てしまった」と、必死に訴えていたことがあったはずだ。

あの日に限って多津子さんはいなかった。もちろん家族にも話したし、他の園児や近所の子らにも見たままの光景を繰り返し口にした。しかし誰も信じてはくれなかったから、落胆とは異なったかたちでぼくの胸に空洞を生み出して、後々まで薄ら寒い風を舞わせている。

 

それが幼年時の幻想の産物として風化してゆくことに異議はない。深夜の窓の向こうと夢魔にさして違いが分かるまでもなかったから。

ただ、この歳になっても今だ濃い霧に包まれた中央公園の入り口で目撃してしまった、あの死人ふたりの悽愴な顔が目に焼きついて離れない。たとえ夜の気配に怯える幼心を試されていたとしても。ぼくは昼下がりの霧をかき分けている。

現在では園児だけで帰宅する慣習はなくなったが、ぼくと多津子さんは帰途が同じということで、毎日のように揃いの黄色い園帽子を被り一緒に並び歩いた。

あとから知ったけど、幼稚園からあなたの家まではぼくの所から倍はある距離だったんだね。

道のりは途中で陸橋を渡り右に折れるだけで、あとは真っすぐな家路をたどればよかった、と云ってもいつも気丈な面持ちでいる多津子さんに対し、決して平淡にサヨナラを言っていたのではなかった。

心細さなんて言葉の意味を持ち合わせていないぼくでも、何故かしらどこか落ち着きが悪く、雨の日など水たまりに小石を蹴飛ばしりしながら、あの頃よく見かけたアメンボがあわてている様子を、くすぐったい気持ちで眺めていた。

実は当時あなたと何を喋りながら歩いていたのか、まったく憶えてなくて、さっきも言ったけど濃霧のなかに忽然と現われた死人に関する衝撃だけが、脳内にこだまするよう多津子さんの面影へと拡散してゆく。

間違いなく初めて異性を意識したのはあなただったろう。

しかし小さな胸に刺さったものの正体を理解するのは不可能で、又いばらの棘は痛覚をあたえなかったから、のっぺらとした時間だけが異性である多津子さんを模造の花びらに変えてしまうことが出来た。

お遊びのとき、色紙で花を折ってみる無邪気さには、ある種技巧めいたものが潜んでおり、その手が硬直してしまうように、意識は揺籃から躍りだしはしなかった。

震える声はまだ何もなさない野の下で、羽ばたき始める蝶と出会う。

勝手な文面で失礼なのは承知だけれど、その後この狭いまちで小中高と学校を上がるにしたがい、何度か顔を合わせる機会はあったはずで、だが、多津子さんの目にはぼくが感じとっていたものとは別種のひかりが鈍く宿っていたから、風化を承認したほうがいいと思ったんだ。

勘違いしないで下さい。未分化な念いは歳月が解決してくれるけど、霧のなかの死人、そう真っ赤な車の前席で首をもたげる格好で口から血をひとすじ流し、静止したものを永遠に見つめていたあの瞳孔は、破り捨てても、焼き捨てても何度でも引き出しのなかに見つけ出される卑猥な写真のごとく、ぼくのこころに棲みついている。

ふたりは多分二十歳くらいの男女で、その異様なまでに青味がかった顔色と一条の血により、ぼくは吸血鬼に襲われたに違いないと思いなし、恐怖は恐怖である事情を通り越して、現実を不透明な幕で被い、あたかも雲の上に浮かんでいる快感にも似た、あるいは遊技場の回転カップを想起させるめまいを催させた。

金縛りの状態とは逆にその場から駆け出したくなる勢いを封じていたのも、霧の価値を認める判断が備わっていなかったからであり、のちに多少は薄明や夕暮れに親和を覚え、夜の複雑な意味にとらわれだした頃には、怪奇な死人はぼくにとってかつてないときめきとなっていた。

もしあなたと一緒に霧へ包まれていたなら、そう考えると、、、あれから色々な回答は時代の波に逆らう飛沫のままに夜露となって今日までぬれ続けてきた。

 

最近の意想だけ述べておきます。

きっとぼくらふたりは、幼稚ながらも防衛本能が手伝い、死人男女の印象を希薄にしてしまって、軽い怪我がすぐに治る調子の恐怖に泣かされ、泣きやんだあとには絵本を閉じながら黙りこんでしまう無感動に救われる。

そして互いの目の奥に輝くひかりは秘密から遠ざかり、二度と濃霧にめぐり合うことはないだろう。