美の特攻隊

てのひら小説

投函 〜 あの夏へ 8

それから幾日か哀しみに想い馳せることなく、夜気を迎え入れては白々と煩悶を刷くのだったが、そんな虚構のうちに循環している情欲がいつまでも平穏に保てるはずがなかった。
ある大雨の晩のこと、地面を叩きつけるような雨脚と樋をつたう激しい水流の為、いつもなら敏感に耳を澄ませる足音への警戒がなおざりにされ、と云うのも梅雨明けからの久しぶりにまとまった降水で洗われている感覚が先行してしまい、嵐が吹きすさぶ興奮にも似た作用が純一の雑念を払拭したせいもあり、極めて危うい情況を呈したのであった。
「おそらく勘づかれたかも、、、」
時折、特に来客が多く繁忙な日の夜半に、冷たい飲みものや西瓜などを朱美や彼女の母が、純一の寝起きする別棟の二階部屋まで差しいれてくれることがある。
一階は商家ふうのガラス戸をひき開け、土間になったところには純一や三好の自転車、雑貨類に燃料などが置かれており、その先にある六畳の間の左から階段が上っているのだが、主に響くのはガラス戸の軋みであって(六畳間はほとんど開放したまま)しかも二枠に収められた大きな硝子なので、二階にも振動としてよく伝わるのだった。

ジャージの上下は作業着と云うよりパジャマ替わりに着衣されて、ベルトもファスナーもない気楽な着心地は又、儀式の際にも下着ごとずりおろせる手軽さがあった。
激しい雨が窓のそとから部屋のなかまで煙って来そうな陰湿さは、決して不快な気配を室内に誘致したわけではなく、むしろ純一にとってある種の静寂をもたらした。
雨音に対し知らず知らずの裡に意識が沈みこんでゆく、、、暗雲たれこめる夜空は判別つかない遠景を一層曖昧なものにしてゆき、難なく山稜を潜伏させた意思もやはりくみ取れないまま、星のきらめきを乞い願う闇夜の憧憬に柔らかに応えるよう、たより気ない外灯のあかりがぼおっと浮き上がっており、降りつける線状の雨を瓦屋根がきつく跳ねかえす様を、少しだけ情趣が醸し出したふうに意地らしく光らせるのだった。
夜が眠りを忘れ去ろうとしているのではないかと、想い募らせた子供ごころをなだめてくれるように。

純一は幼年期の未分化なこころが性的な濁色で配合されだした日々を、憎み愛した。
根もとからの噴出は快楽によって愛憎を無辺の虚空に希釈させ、徹底した快感を培養することで、現実の秘めごとは独白の根底に潜水していく。
とろみをもった精のあふれは清色の、清水の、抽出液だった。
少年には破壊的精神は存在しなかった、ただ、過ぎゆく時間に向き合った時限爆弾の仕掛けみたいな、何もかもかが静止する緊縛の予感を怖れつつ崇拝した。
傷つけられる時間から逃れることが不可能である故に、目を耳を鼻を口を皮膚を、そしてさまよい出そうになる魂魄を逃がすまいと懸命になったのである。
いつもは階段を踏みしめるときに生じるだろう、空気の上昇の気配でそれが誰なのか純一は判断していた。
しかし、極点に達しかけた逸楽と強雨の音が障壁となってしまった。
障子のむこう側から「純ちゃん」と朱美の声が届いたときには、あわてふためくよりも全身が凍りつく反応がいち早く、せめてもの救いは背後より不意をつかれたことで、それはすでに開きだそうとしている部屋の光景をあからさまに露見する危機を辛うじて回避させた。
障子に手をかけ朱美が現れる、、、引き下ろされた股間に固く火照ったものは噴射寸前だったのだ。膠着したからだにも拘らず背中の眼が、うしろの様相を鋭く察した。
朱美は自分のあられもない姿を瞬時に見抜いてしまうだろう、、、だが、彼女にしても思いの他に違いない、きまりが悪いのは秘めごとに遭遇した者同士が抱き合う、恐怖による密着劇と同じ情況だから。
咄嗟に言葉も態度も表情も作られはしない、、、純一にはそんな保身をはかる一抹の余地が残されていた。
局部の露出を免れた態勢から両の手をさっと離して火照りをズボンのなかに隠すと、大様にふりかえってみせ、うつむき加減なのも仕方がないまま、
「びっくりした、大雨の音でわからなくて、何かドキッとしちゃった」
と、意に介さない素振りを示したのだったが、すでに背中の眼が察知した怪訝な面影はそこにはなく、普段通りの微笑が、けれども純一のこころに触れることをはにかんでいるような生真面目さが、赤面を催させる湿気を帯びた部屋にひろがっていた。
一呼吸つく間もなく、安堵の念とともに朱美の顔色をうかがったその時、純一は根もとから急激に噴き上がってくる源流の勢いをどうすることも出来なかった。