美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜44

少しばかり喧噪から奥まった雰囲気が感じられたのは、どこか昭和を喚起させる素っ気ない店内の作りに相まって出汁の匂いがしみじみと鼻に香ったからだろう。
特に古びた木目が際立つ壁面でもないのだが、飴色をしたカウンターやテーブルには時代がかった味が染みこんでいるようで親しみやすく、ぞんざいに置かれた割り箸立てや、ひかえめなのか強引なのかよく分からない白紙になでつけるふうに書かれた品書きや、そして何より投げやりな調子で明かりを放っている蛍光灯の加減が、ほどよい落ち着きに加担しているのだった。
気がそぞろなせいもあり、案内を買って出たまではよかったのだが、純一の意気込みはどことなく沈下していており、また砂里も胸中にわだかまる暗雲でそれほど店のなかを興味深く見てはいない。
それでも注文のかやくうどんが運ばれてきたときには、その瞳に無造作なひかりが瞬いたような気がした。

「ほんとう、関西風だわ。麺もあまり腰がないあたりが絶妙かもね。かつお出汁がよく効いてる」
讃岐うどんもそうだけど、おつゆを含んだあとにうま味が訪れると思わない。それが麺にからみついて食感を引きだしているんだ」
さっきまで冬空の下にいたことを忘れさせてくれるひとときがそこにあるように感じる。
ふたりとも上着を脱いでいないことに気づくと同じ動作が示された。そして食べ終わるまでは言葉を交さないのが礼儀であるみたいに無心を装った。
外気と店内の温度差、それに湯気立つかやくうどんの温もりが両人の目に潤いをもたらしたのを確認し合ったのは、純一がどんぶりを傾けつゆを飲み干したあとだった。親しげな目をした砂里を見つめる。
こころのなかに温かみが染みわたったのは食事のお陰だけではあるまい、そんな想いが北風のようによぎれば相殺される感情が横たわるはずだったのけれど、純一は砂里を模した微笑を目のなかにたたえた。

満足そうな顔をしたぼくらを端から見れば、おそらくなごやかな心持ちを抱いたかも知れない、、、が、不意に影差す炎天下の戯れに似たものが、考え以上に濃くひろがってゆく。
長かった夏日を振り返るまなざしには不確かな悔恨がつきまとっている。予想を遥かに上まわった経験が驚きよりもある種のせつなさを残していくように、かけがえのない日々はそれほど遠い過去にあるものでなく、反対にとまどいに揺れているからこそ、ときの後方へ記憶を追いやってしまう。
少年時代の冒険ごっこを懐かしむこころに罪はない。寝ぼけまなこで薄暗い階段を降りることは危険をともなうだけなのだろうが、明瞭な意識のもと手すりにつかまりながら恐る恐る足もとを注意しながら歩を進める身ぶりは味気ない。
とは云え、自分でも判然としない想念で無闇に行く手をさえぎっていることを潔しと認めたくないのなら、それこそ深沢家で催された暗幕の儀式にならい、自らの首魁と相対するのが大切なのだろう。
「ここはあんみつやところてんなんかもあるんだ。どうデザートに」
純一の言いたいことを察したのか砂里はゆっくり瞬きしながらうなずき、
「じゃあ、あんみつ食べようかなあ」と、
鈴の音のように答えた。純一の杞憂は鏡の向こうへ憧憬になって遠く映しだされる。
「ねえ、純一くん、わたしに聞いてもらいたいことってさ、ひょっとしてわたしのこと」
「それもあるんだけど」
「なんかさあ、直感っていうか、それほどでもないんだけど、だって純一くんの顔に書いてあるもの。いいわよ、どうせ順序よく話しの筋を通してでしょう。でもね、結構わくわくしてるんだ。あれから美代さんはどうなったか、あなたのお父さんに異変はなかったとかさ。お母さんは何にも言ってくれないどころか、人様に知られていけない件まで暴露してしまったんだから仕方ないけど、もう金輪際あのひとたちとは関わりは持つべきじゃないって。もう精算したつもりなんでしょう。きっとそうよ、純一くんに会うなとか言うし」
純一は自分の表情が陰険になってゆく気がしていたたまれなかったが、砂里のあけ透けで陽気なもの言いにいくらかほだされ、背筋をただしながらこう答えた。
「君のお母さんの言い分はもっともだ。忘れるすべも、思い起こすすべも、定規で線を引くみたいに割りきれなかったから、結局は封印のかたちをとっていただけで、去年のことでより一層その気持ちが固まったんじゃないかな。割り切れなさを固めるっていうのは変かも知れないけど。ぼくのなかにだってそんな気持ちはある。多分うちの父だってそうさ」
「あら、長沼家の家風に賛同してくれるんだ。ありがとう。じゃあ、聞かせてもらおうかな。その後の顛末を」