美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜3

「もう立派な幽霊だよ」
えっ、誰がつぶやいたの。
独り言じゃないわ、たしかに耳もとへ届いた。優しく厳しくもあるような、それから不気味さがしっかりまとわりついている。
仕方ないのよ、時間をとらえるのだってあやふやだし、おまけに記憶があちこち散らばりすぎて、はなからつなぎ合わせようとか無理なのもわかってて、それでも意欲だけは波平さんの毛みたいにちょこんと乗っかっているの。あっ、波平さん思い出した。座頭市ムーミン谷の次にやってきたわ。
しかしその先がですねえ、どうにも曖昧なんです。これが記憶喪失とか記憶障害ってことなんだろうな。そうした認識はありますよ。なんてえらそうに言うのは結局なげやりな口調のほうが本当らしいと思ったからで、空威張りとか捨て鉢ではありません。
女子高生だったし、たぶん今でも、、、学校には行ってないけど制服着てるし、同級生の面影や校内の様子はうすぼんやりでしかないにもかかわらず、わたしを見えない衣でそっと支えてくれている。
死んでしまって沼底を徘徊する意識にとってみれば生前の記憶はただひたすら、未練を呼び寄せるだけかも知れない。そしてそれがどれだけ辛いかくらい考えられる。だから、このもやがかった状態は正常なんだろう、きっとそうだわ、鮮明な物覚えなんて今は必要ない。だったら最優先されるものは、、、もう我ながら呆れてしまいますね、この堂々めぐり、早く出口を得たいがためなんだろうけど反対に自覚から遠のいているような気がしてきた。

と、まあ、あれこれ思い惑ったのも一瞬だったのか、一年がかりだったのやら、ようするにわたし立派な幽霊である自分のことを認めたくなかったみたい。
化けて出てやるなんて誓ったのも、沼のほとりを夢想したのも、ただひたすらここから逃げだしたい一心だったのだわ。地下道が延々としてきりがなかろうが、とにかく目についた扉に引きつけられ、さらなる地獄だとしても先へと踏み出してみるしかすべはなかった。神様にすがったのはいい加減うんざりしてきたから、悟りを口にしたのも仏様を頼りにしたからだった。どんずまりのこころよ。
まだ死んだって事実から離れ去ろうともがいている。それでもですねえ、こうして意識があるのですから、さほど非難されなくてもいいのじゃないですか。誰も非難してないけど。
ものわかりがいいって誉めてもらったじゃないの逆に。馬鹿みたい、ちょっとばかりおだてられたりしたら、すぐ調子にのっていい子ぶってしまった。わたしって妄想好きだったのね、だからあて推量をまるで先導された道のりであるかのように飲み込んで、未知なる領域に夢を託したのだわ。自分で言うのもなんだけど、なかなか前向きだと思ったんだけどなあ。
けど死人には無用か。扉に飛びつかないでなまずとカエルのおふたりさんを探すべきだったかも。そしたらおしゃべりを楽しむ特権は保たれていたはずよ。かなり有意義で不可思議で、しかもときめきを秘めていたかも知れない。
いなくなった影より眼前の可能性にすがるってやっぱり欲深いわね、死んでもこうなんだから案外すてたもんでもないわ。いけない、いけない、またまた自己肯定に走ろうとしている。
苦笑じみた顔つきは鏡なしでも十分に想起できた。寂しさと悲しさを取り残してみるとひたすら渇いた気分に落ち着き、足が止まった。そのときよ、声が間近で聞こえたのは。間違いない、わたしに話しかけている。

「早く出てきなさい、いつまでそこにいるつもりじゃ」

なまずおじさんの声だった。続けて「そうよ早く」ってカエルおばさんが念押ししている。
とても懐かしかったわ、百年待った、千年待った、それくらい感情が沼全体に満ち満ちて、わたしのはち切れんばかりの時間で一杯になった。
視界はせまくもなく堅苦しくもない。ふたりと再び向き合っている。表情をたしかめる余裕なんてなかったけど、ただふたりの存在というだけで申し分なく、あとは律儀すぎて困る神経で背後に扉を感じていたの、そしてとってつけたみたいな時間の推移と凍結を。しかしもう、ためらいや痴呆的なへだたりはいらない、素直に言葉はついて出た。
「わたしあの扉のなかに入ってずっと歩き通していました。いったいどれだけの月日が経ったのですか」
即答しかけたなまずおじさんの大きな口が開きかけるのを見つめながら、思考がひかりの速さで駆け抜けていく。死の世界に時間は価値を見いだせない。答えは一致しなければいけないと願ったのね。
「一晩だよ。腹も減っただろう」
「えっ」
嗚咽になりかけそうな弱々しい音を吐きながら、空腹を問われるという予期してなかった労りに呆然となったわ。
「お腹ですか、そういえばわたし何も食べてないです」
カエルおばさんの相好がくずれるのを不吉な予感と取り違えてしまった。それほどキツネにつままれた気分だったの。
「夕飯も抜きだったのでしょう。朝ごはんも」
「ここに来てから食事した覚えがありません」
これくらい実直な返事はないって勢いできっぱりそう言った。それどころか入浴や排便、睡眠、ええ~い、すべてよ、家すら帰ってないのよ。いつものうっとうしい日々の細々した雑事や、あべこべに楽しい遊びも友達とのメールも途絶えてしまってなにも起らない。ああダメだわ、また興奮してしまった。そういうわけにはいかないってこと忘れてた。ほんの一瞬だけど。
「無理もないさ、あんたはまだ日が浅い。あれだけ事情を聞きたがっていたのに」
目がつり上がっているのが自分でよくわかった。
「じゃあ、どうして急にいなくなってしまったんですか」
なまずおじさんは半ば眠たげな目でいさめるよう、語気をやわらげてこう言ったわ。
「あんた自覚しただろ、あれこれと」
稲妻のような思念が遥かむこうの水底からやってくる。でも混乱は招かなかったわ。わりと冷静だった。次の言葉をゆっくりまばたきしながら待った。
「死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない」
どうしたことでしょうか、一緒に詩句をなぞるふうにそう声をあげてしまった。
「それが原因ですか」
自覚を読まれてしまっているおののきが一層わたしの態度を弱々しくさせたの。
「そうだとも」
なまずおじさんは自信たっぷりな面持ちで答えた。もう無言を通したかったわ。なんにも問いたくないし、聞きたくない、関わりも持ちたくない、けれどもそれだとこの身が微かに震える。
「時間がかかりそうですね」
「もちろんそういうことだ」
「地下道を歩きながら考えていました」
「なにを」
「理想と理屈と現実、それから波平さん」
「なんだい、波平さんって」
しまった、ムーミン谷と同じ轍だ。ここはお茶をにごしておこう。
「あのですね、幽霊ははかなげってことでして」
「ほう、そいつはいいとこに気づいたなあ。やっぱりものわかりのええ娘じゃ」
「そうですか」
カエルおばさんまで、、、結局わたしは適度であり都合よく出来ているんだ。そうなのですね。
が、あまり卑屈になるべきではなかったのでした。地下道は無為なる情熱でも、朽ちた詩歌でもなかった。大事なのは学習なのです。このみどろ沼とわたしという現象をしっかり学ぶことを抜きにしてことは、どこへも一歩たりと進めませんから。