美の特攻隊

てのひら小説

ペルソナ〜30

肩に触れた黒髪は風にそよいでいるようであったが、澄んだ空気は動かないままじっとこの瞬間を愛でていた。
孝之のこころにも凍結とは作用の違った揺るぎのなさが到来していた。それが寸暇であることはわかっていたし、通りすがりに鼻をつく芳香みたいなものだと云う感覚も潔く承知していた。それだからこそもう一度、待ち人から旅人へと変化する仕掛けに耽溺した。
純一からは幾度か彼女の存在を聞かされていたけれど、これまで自分の方からどういった容姿であるのか、家庭環境や学歴などの込み入った内情には探りをいれたりしなかった。
単に興味がないと云うのは詭弁であり、痛手を被るはめに陥った息子の未来を直視する勇気がなかったのが本当のところだろう。
自ら刃を突き立ててしまうのを過敏に臆するあまり、放恣な振る舞いを奨励している惰弱な魂胆を見とがめようとしない。それでいて、趣味的とも呼べる不穏な事態には気安く同意を求め、同調されることに感銘したり都合のよい折り合いに対し随分もったいぶった理念を反応させた。気にいった書物のとある頁だけにきちんとしおりを挿みこむように。
長沼砂里の容貌に面しても、そんな一頁からめくられる抜粋の要領で黙読してみる。素早く、的確に、そしてはかない字面に魔法がかけられていることを切に願って。
そうした所為が孝之にとって許されているのかどうかは、不問に付された。衝動は風に似て横暴なさわやかさを含んでいる。幸い風はやんだ。横暴さも一瞬息をひそめる。すでに色褪せつつある写真のような残像だけがそこに焼きつけられた。

ストレートな髪と面長なつくりは女性としてのかよわさと堅実な意思をきわめて効果的に組み合わせていた。
からだのふくよかさは別としても、その容色から導き出される体感は脆弱でありながら、どこかに鋭気を忍ばせ、色香を放ちつつも抵抗させると云う反作用をうながす。
ましてやや上がり気味の双眸がもたらす印象は、まさに狐の面に対峙したとき感ずる冷ややかなときめきを到来させるも、犬や猫に抱く感情と同じ獣でありながら愛玩の対象へとひとすじに徹されるあの情愛のなかに包みこまれてゆく。
砂里の顔立ちが怜悧で近寄りがたい印象にとどまらないのは、ほどよい高さをもった鼻筋と煮豆を思わせる小鼻のふくらみからくる愛らしさが備わっているからであり、その下に位置するやや肉厚で左右にひらいたくちびるがさらなる愛嬌と、艶めいたひかりを同時に配しているからであった。
口角を下げることを忘れた口もとにも、開花寸前の匂いたつ蜜の味が天衣無縫にまとわりついている。彼女はそれを意識しているのか、していないのか、どちらにせよ小さな太陽に違いない笑顔が浮きだたせる夢のひとときは、すべてが薔薇色に染まった花弁に歩みよる決意を禁じたりしていない。
ホワイトジーンズの裾は夏の忘れ形見のようにまくりあげ、素足に薄いベージュのパンプスを履いていた。緩やかな丸首をもった淡いブルーのカットソーはやや生地が厚めであったが、とてもからだの線に沿っているので、どうしても全身の隆起に気がとられてしまうのだけど、そこからの描写はあえて見ぬ素振りで流してしまおうと念じたものの、眼球に映ずる砂里の姿はひとつに統合された身体であり、決して便宜だけで抜粋できてしまうほど安易なひとがたではなかった。
早くも座礁に乗り上げる失意をもよおしたが、どこか投げやりな意識が逆に至情に働きかけるのだろう、砂里のからだつきは上背もあって思ったより豊満なこと、それは全体をさり気なく見やる目つきに自ずと還元され、しかも座礁に屈することなくその場に投錨さえしてしまう開き直りに転じ、とは云え純白の手袋を思い出させるような手先に塗られた桜色のマニキュアに感心してから、張りのある胸もとへと釘付けになってしまうのだった。
さながらトーマス・マンが描いた「ヴェニスに死す」のアッシェンバッハの心情みたいに。涼し気な感心から、おそるおそる忍ばせる足音に、やがては我をなくしてしまう激情へと。
だが、少なくとも孝之はアッシェンバッハほどに暇人でも自由人でもなかった。また、「さあ、これで心おきなく恋をなさることができますよ」と、ささいな補いをしてくれる理髪師にもめぐりあってはいなかった。
ただ、虚飾の精神を見届けようとする気概は中々堂に入ったものだった。魔法はかけられていたのだ。
残像たなびく長い夢のあとのような気怠さは、戦場に向う兵士の休息に似て模糊とした裡にも贅沢な時間を提供させた。能の舞いが魅せる幽明の静かだけれど強烈なる鼓動をともない。

三たびとんびの声を耳にした刹那、孝之はそれが合図となったようにこう言った。
「そろそろ時間だ。純一、砂理さん、よく聞いてほしい。君らがどうした意思でこれから深沢家を訪れるのか、その理由はこれ以上詮索しないし、私も詳細はもう語らない。ただ、ふたりを危険な情況に巻き込んでしまうのがやはり心配なんだ。案の定、深沢さんの妹はこのまちに来ていた。推測通りだった。吸血鬼に会いに行くって思いはないよ、しかし決して良いことは起らないだろうな、悪いことは惹き起こされても、、、どうだい、辞めるのならそれでいい、特に砂里さんはまったく事情を飲みこんでいない、面白半分だったら辞めるべき、そこだけを確認しておきたいんだ、わかるかい」