美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜3

「もう立派な幽霊だよ」
えっ、誰がつぶやいたの。
独り言じゃないわ、たしかに耳もとへ届いた。優しく厳しくもあるような、それから不気味さがしっかりまとわりついている。
仕方ないのよ、時間をとらえるのだってあやふやだし、おまけに記憶があちこち散らばりすぎて、はなからつなぎ合わせようとか無理なのもわかってて、それでも意欲だけは波平さんの毛みたいにちょこんと乗っかっているの。あっ、波平さん思い出した。座頭市ムーミン谷の次にやってきたわ。
しかしその先がですねえ、どうにも曖昧なんです。これが記憶喪失とか記憶障害ってことなんだろうな。そうした認識はありますよ。なんてえらそうに言うのは結局なげやりな口調のほうが本当らしいと思ったからで、空威張りとか捨て鉢ではありません。
女子高生だったし、たぶん今でも、、、学校には行ってないけど制服着てるし、同級生の面影や校内の様子はうすぼんやりでしかないにもかかわらず、わたしを見えない衣でそっと支えてくれている。
死んでしまって沼底を徘徊する意識にとってみれば生前の記憶はただひたすら、未練を呼び寄せるだけかも知れない。そしてそれがどれだけ辛いかくらい考えられる。だから、このもやがかった状態は正常なんだろう、きっとそうだわ、鮮明な物覚えなんて今は必要ない。だったら最優先されるものは、、、もう我ながら呆れてしまいますね、この堂々めぐり、早く出口を得たいがためなんだろうけど反対に自覚から遠のいているような気がしてきた。

と、まあ、あれこれ思い惑ったのも一瞬だったのか、一年がかりだったのやら、ようするにわたし立派な幽霊である自分のことを認めたくなかったみたい。
化けて出てやるなんて誓ったのも、沼のほとりを夢想したのも、ただひたすらここから逃げだしたい一心だったのだわ。地下道が延々としてきりがなかろうが、とにかく目についた扉に引きつけられ、さらなる地獄だとしても先へと踏み出してみるしかすべはなかった。神様にすがったのはいい加減うんざりしてきたから、悟りを口にしたのも仏様を頼りにしたからだった。どんずまりのこころよ。
まだ死んだって事実から離れ去ろうともがいている。それでもですねえ、こうして意識があるのですから、さほど非難されなくてもいいのじゃないですか。誰も非難してないけど。
ものわかりがいいって誉めてもらったじゃないの逆に。馬鹿みたい、ちょっとばかりおだてられたりしたら、すぐ調子にのっていい子ぶってしまった。わたしって妄想好きだったのね、だからあて推量をまるで先導された道のりであるかのように飲み込んで、未知なる領域に夢を託したのだわ。自分で言うのもなんだけど、なかなか前向きだと思ったんだけどなあ。
けど死人には無用か。扉に飛びつかないでなまずとカエルのおふたりさんを探すべきだったかも。そしたらおしゃべりを楽しむ特権は保たれていたはずよ。かなり有意義で不可思議で、しかもときめきを秘めていたかも知れない。
いなくなった影より眼前の可能性にすがるってやっぱり欲深いわね、死んでもこうなんだから案外すてたもんでもないわ。いけない、いけない、またまた自己肯定に走ろうとしている。
苦笑じみた顔つきは鏡なしでも十分に想起できた。寂しさと悲しさを取り残してみるとひたすら渇いた気分に落ち着き、足が止まった。そのときよ、声が間近で聞こえたのは。間違いない、わたしに話しかけている。

「早く出てきなさい、いつまでそこにいるつもりじゃ」

なまずおじさんの声だった。続けて「そうよ早く」ってカエルおばさんが念押ししている。
とても懐かしかったわ、百年待った、千年待った、それくらい感情が沼全体に満ち満ちて、わたしのはち切れんばかりの時間で一杯になった。
視界はせまくもなく堅苦しくもない。ふたりと再び向き合っている。表情をたしかめる余裕なんてなかったけど、ただふたりの存在というだけで申し分なく、あとは律儀すぎて困る神経で背後に扉を感じていたの、そしてとってつけたみたいな時間の推移と凍結を。しかしもう、ためらいや痴呆的なへだたりはいらない、素直に言葉はついて出た。
「わたしあの扉のなかに入ってずっと歩き通していました。いったいどれだけの月日が経ったのですか」
即答しかけたなまずおじさんの大きな口が開きかけるのを見つめながら、思考がひかりの速さで駆け抜けていく。死の世界に時間は価値を見いだせない。答えは一致しなければいけないと願ったのね。
「一晩だよ。腹も減っただろう」
「えっ」
嗚咽になりかけそうな弱々しい音を吐きながら、空腹を問われるという予期してなかった労りに呆然となったわ。
「お腹ですか、そういえばわたし何も食べてないです」
カエルおばさんの相好がくずれるのを不吉な予感と取り違えてしまった。それほどキツネにつままれた気分だったの。
「夕飯も抜きだったのでしょう。朝ごはんも」
「ここに来てから食事した覚えがありません」
これくらい実直な返事はないって勢いできっぱりそう言った。それどころか入浴や排便、睡眠、ええ~い、すべてよ、家すら帰ってないのよ。いつものうっとうしい日々の細々した雑事や、あべこべに楽しい遊びも友達とのメールも途絶えてしまってなにも起らない。ああダメだわ、また興奮してしまった。そういうわけにはいかないってこと忘れてた。ほんの一瞬だけど。
「無理もないさ、あんたはまだ日が浅い。あれだけ事情を聞きたがっていたのに」
目がつり上がっているのが自分でよくわかった。
「じゃあ、どうして急にいなくなってしまったんですか」
なまずおじさんは半ば眠たげな目でいさめるよう、語気をやわらげてこう言ったわ。
「あんた自覚しただろ、あれこれと」
稲妻のような思念が遥かむこうの水底からやってくる。でも混乱は招かなかったわ。わりと冷静だった。次の言葉をゆっくりまばたきしながら待った。
「死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない」
どうしたことでしょうか、一緒に詩句をなぞるふうにそう声をあげてしまった。
「それが原因ですか」
自覚を読まれてしまっているおののきが一層わたしの態度を弱々しくさせたの。
「そうだとも」
なまずおじさんは自信たっぷりな面持ちで答えた。もう無言を通したかったわ。なんにも問いたくないし、聞きたくない、関わりも持ちたくない、けれどもそれだとこの身が微かに震える。
「時間がかかりそうですね」
「もちろんそういうことだ」
「地下道を歩きながら考えていました」
「なにを」
「理想と理屈と現実、それから波平さん」
「なんだい、波平さんって」
しまった、ムーミン谷と同じ轍だ。ここはお茶をにごしておこう。
「あのですね、幽霊ははかなげってことでして」
「ほう、そいつはいいとこに気づいたなあ。やっぱりものわかりのええ娘じゃ」
「そうですか」
カエルおばさんまで、、、結局わたしは適度であり都合よく出来ているんだ。そうなのですね。
が、あまり卑屈になるべきではなかったのでした。地下道は無為なる情熱でも、朽ちた詩歌でもなかった。大事なのは学習なのです。このみどろ沼とわたしという現象をしっかり学ぶことを抜きにしてことは、どこへも一歩たりと進めませんから。

青春怪談ぬま少女〜2

見知らぬふたりはもう随分とまえからわたしのことを観察し続けているような思いがした。
だって顔を見合わせるのと、わたしを見つめている時間が同じくらいで、そのうえ目の色はとても深く、くちもとは秘めごとを押し殺しているように感じられたから、まちがいないわね。こんな間合いなんて偶然に生まれるより、前もって取り決められたって考えたほうが正解だよ。
あ~あ、沼の底に沈んだのはきのうきょうの出来事じゃない、かといってそんなに古い事件でもなさそう、わたしの意識が眠っていたにせよ、閉ざされていたにせよ、こうやって他者と向き合っている実感はとっても生々しくて新鮮だったし、不安だった。
ひょっとしたら意気消沈の期間が分厚い被膜になってなにも得られかったのかも知れない。ともあれ、死んだ自分に意識が戻っているのって興奮してしまうわ。さぞかし混乱したと思われるでしょうけど、あんがい高鳴りは正常でまっすぐ胸をはっていた。よろこびも手伝っていたかもね、そりゃそうでしょう、ここがたとえあの世だったとしても、わたしは目覚めている、もっと言うなら生きているんだ、死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない。
これは開き直りかな、気持ちの整理はゆっくりやれそうだったから、あれこれ解釈はやめにして、自覚から出発進行することにした。で、気づくとふたりのすがたは消えている。前後左右なんども首をまわしたけど、どこにも見当たらない。ひと叫びしたいところだった、ほんとう。
ところがなんとですよ、別の視界が開けていたわけ。手の届きそうな場所にごくありふれた民家の扉が待ち構えているじゃない。これには仰天したわ、どこでもドアじゃあるまいし、どうしていきなり、、、とはいってもその半開きの扉が現れたとたん、わたしうれしくなった。
「この娘はものわかりがいいですねえ」
あの声が耳の奥でこだましている。はい、わかりました。
わたしの意思が視界を生み出しているんだわ。とすれば、心持ちのあり方でみどろ沼は別世界になる可能性がでてきた。
あれこれ解釈をやっぱりするべきだ。沈思黙考、ああ時間を感じる、と同時に水圧も、冷たさも、息苦しさもやってきた。これじゃ溺れ死んでしまいそうだった。でもすでに死んでいるって念じたら体感はきれいさっぱり遠のいていったわ。もう水は空気、飲み込んだって平気、あいかわらずどんよりした水底だったけど、平野のように限りなくゆきわたっていた、なにがって、う~ん、よく言い表わせないわね、しかし早起きした朝の空が澄んでいるみたいで決して不快な気持ちになったりしない。
いいことがあるって保証は求められないだろうけど、とりあえず扉に手をかけてみた。

あれ、これは地下道ではないですか。トンネルにも見えるけどそうなると水底トンネルになるわね、が、わたしにはあくまで地下道に映ったの。水の抵抗を感じない限り、ここはすでに沼であって沼じゃない。だから陸地が呼び戻され呪縛から解放された、そう思いこみたかったのですね。その方が都合よいだろうし夢がある。
では早速、旅に出るとしましょう。申しわけなさそうにかなりの間隔で灯っているほの明るさを頼りにどんどん進んでいった。どれくらいの距離を歩いたんだろう、とにかく一直線な道だったわ、ふと腕時計をしているのを知った。
どうして今頃、、、それとも扉と一緒で急に出現したってことかしら、でも、悲鳴が伝わってひび割れを起こしたふうな時計の表面は汚れたままで、時刻をしめす針はぐにゃりと折れ曲がっている。これでは役に立たないわね、だから忘れていたのかも。
いやだわ、いやだわ、腕時計が壊れたと推定されたとき、わたしは誰かに殺された。そのまえには乱暴された。きっと抵抗したはずよ、その際の傷跡かも知れない。手首から引きちぎってしまいたい怒りを覚えたけど、どうしたわけか、そのままにして止まった時間を押し流す要領でより早足で地下道を駆けて抜けた。
薄暗いのはもちろん、単調な直線に変化は訪れなかったし、目的意識さえ希薄になってゆき、ふたたび朦朧とした視野に導かれ、浮ついた気分は意思をささえきれなくなっていたわ。それほど長い長い道のりだったのよ。一日や二日じゃなくもっともっと、一年、三年、十年、概算すら通用しないのは仕方ないの、わたし死んでいるから。
引き返そうなんて考えなかったわよ、ここまで来たんですから、地底探険よろしく果てまで行ってみたい。しかしながらこの永久的な暗がりには滅入ってしまう、出口なんかない、これが死の世界なんだ、沼の住人は引導を渡してくれただけ、やがて歩き疲れ倒れこんでしまう。
そのとき意識は消えさり、わたしは無になる。だったらもういい加減にしてほしいわ、これって儀礼なの、誰かに案内されているわけ、そこに意味なんてあるのかしら、死人を生かしておいて一体どうするっていうのよ。
怒りもあったけど、実はとっても悲しかった。うらみつらみもない、わたしを殺した奴にも激しい憎悪を感じなくなっている。願いはひとつだけ、早くこの意識を消して、ふっとろうそくの火をかき消すように。
死んだあとまでどうして苦しまなくちゃいけないの、そもそも死は無でしょうが、平安時代とか鎌倉の世にわたしの意識が存在しなかったように、ただ永遠の沈黙が約束されているはずじゃない。
これが目一杯の思考だった。そしてあとはひたすら呪文のごとく繰りかえされるばかり、いっこうに倒れもしないし、地下道は生真面目に続く。百年ほど経ったのかしら、でも時間じゃない、距離でもない、そして意識でもない、いや、こんなこと思っているんだから意識はありそうね。そのとき天井からぽたりと水滴が頬を打った。
たったひとしずくだったけど、なんという懐かしさなんだろう。わたし涙を流しそうになったわ。
けど涙よりひらめきのほうが素早かった。意識が意識らしくなったのよ。そう、こんな思いつき。
わたしは生まれかわる為に歩んでいるんだ。過去を切り捨て新たな生命となる、とね。
するとすかさず抵抗が生まれた。
過去の記憶なんてすでにない、この腕時計が唯一の残骸、それとも今から徐々によみがえりの作業が始まるってことなの。生まれかわりではなく記憶がめぐってくる、受け皿に盛られるだけ盛られる、あらゆるの記憶が。
つまりこの地下道は負の巡礼とも言える。耐え忍ぶのは死人も同じってことか。そこで別の思惑が鋭く放たれた。
過去を背負う、これって幽霊になるって意味、化けて出るのね。復讐してやるのだわ。成仏できないはずよ、まだくすぶっていたんだもの。
けど、この見解は無惨に崩れてしまった。ならそこら中が幽霊だらけじゃない、霊感を持ってるひとだけにしか見えないなんて割に合わない。犯人に霊感がなかったら話しにならないじゃない、まったく。
それからしょぼくれて足取りは勢いをそがれてしまったけど、また水滴が落ちてきた。はっとしたわ、それからぞっとした。
そうだったのか、わたしは沼のほとりに浮かびあがるのね。ぼおっと色褪せながら。見れるひとだけでも上等なんでしょう。あそこに幽霊が出るってうわさが立てば、わたしは使命を果たしたことになる。
そのうち心霊写真なんか出回って顔かたちからいよいよ身元が確認され、遺体の捜索が始まる。わたし行方不明者のままかも知れないから、これで家族にもさよならが出来るのね。いいわ、やってやろうじゃないですか、幽霊になってやる。そして夜な夜な登場して世間をあっといわせるの。
ほとんど有頂天だったわ、死者がこんなにはしゃいでいいものやら。ああ、でもよかった、きちんと感情が息づいている。ようやく目的が見つかったのよ。
ところで、どうしたら幽霊になれるのかしら、、、あっ、答えはこれだ。この地下道を抜ければいいのです。そうでしょう、神様。ここまで悟ったんですからね、そろそろ出口に近づけて下さいよ。

青春怪談ぬま少女〜1

みどろ沼、ここがわたしの住んでいる、あっ、ちょっと違うかな、でもいいか、他にも仲間がいるしね、とにかく毎日の意識が発生しているところです。
順を追ってお話したいんだけど、どうにも前後不覚の切り貼りだらけで、意気消沈が長かったせいもあって、うまく筋道を運べないの。でも時間は存在してるみたい、朝も昼も夜もくるから。
じゃあ朝ごはんに何を食べたのかって聞かれても即答できない、変でしょ、普通じゃない、すんなりと理解してくれるなんて思ってないし、そうだとしたらしたで、それっていい加減ねって逆にふんがいしてしまうわ、きっと。わたし自身が妙だと感じてるんだから、立場がもし反対だった場合、決してはいそうですか、なんてうなずかないという事情から始めたいのでよろしくお願いします。

 

過去の記憶があいまいかっていうと、そうでもないのね。ここで目覚めたときの印象は強烈に残っているし、まわりの気配もおっかなびっくりだったけど、探ってみようって意欲はなくしてはなかったのよ。
暗かったわ、街の灯りがすべて失われ、夜空の星がみんな消えてしまうより真っ暗だった。目は開いていた、耳も聞こえていた、鼻はくんくんできなかったな、なんせ沼ですからね、今ではまるで水棲動物みたいに嗅ぎ分け可能だけども、最初は視覚より聴覚が勝っていた。座頭市しってるもん、めくらは耳が発達しているんだ。
もっともわたしは花も恥じらう女子高生ですから、仕込み杖なんかふりまわして斬ったはったとかしません。それどころか自分でいうのもなんですが、けっこう男子から言いよられたり、なかには後輩の女子もいたなあ、つまりそこそこきれいな娘だったわけなのです。
もうこれ以上は言わないでおこうっと、あんまり自慢ばっかしてると嫌われてしまいますからね。で、耳を澄ましているとなにやら声が伝わってきたの、ひとの言葉よ、かなり離れたところから聞こえてくるんだって感じてたけど、そうじゃなかった。ひそひそ声だった、どうやらわたしのことをあれこれ詮索しているみたい。はじめに言葉ありき。

「まだ若い子じゃないか、どうしたもんだろう、きちんと説明してあげたほうがいいのか」
「いずれ、気がつくのでしょうから、そのほうがよろしいかと」

ピンときたわ、とりあえずわたしの身には異変が起っている、それは相当なことで、かなりの勇気がないとその異変を受けとめきれそうもないとすぐに了解した。わたし、子供の頃からけっこう好奇心おうせいだったんで、ひとりで陰気くさくしたり、どこの誰ともわからない連中のうわさに縮こまっているなんてまっぴらでした。それで、こっち側から問いかけたんです。
「あのう、わたし大丈夫ですので、説明をぜひとも」
多少はひかえめな口ぶりだったわ、あんまり元気過ぎたらいけないような心持ちがしたの。だってどう考えてもいい報せなんかじゃないだろうし、不吉な影に覆われているのはこの視界の悪さが証明している。
それでも魚心あればなんとかっていうやつね、わたしが意思を抱いたとたんにぱっとまわりの風景が開けた。ええ、それは驚きましたとも、腰を抜かさなかったかわり、目が点になったわ。だってここ水底なんだもの。どうしてからだが水分を感じとらなっかったのか、よくまあ呼吸できたもんだ、もうだめ、わたし人間じゃない、常識って言葉が何十回もあたまのなかをぐるぐるまわっていた。

風景、まず目にしたのはさっきの声の住人、カエルの顔したおばさんとなまずのおじさん、よくわかんないわ、なんなのこのふたりは。疑念の回転は相当な速さだったみたい。なぜなら、なまずおじさんはこう話しかけてくれたの。
「おお、そうかい、じゃあ、気を確かにな。辛いだろうが悲観するだけが思念ではない」
「同感です。どうぞ遠慮なく」
わたし、なんだかうれしくなってたわ、地獄に堕ちたとしてもこのひとたちとこうして会話ができる。驚きは一歩も二歩もさがって、悲しみはまだ到来してなかった。
「あんたは死んだんだよ。もう生きていない」
なまずが喋るもんだから、おごそかな言葉は別の意味にとらえられて仕方なかった。でも飲みこんだわ。
「だと思いました。こんな水底で生きているはずがないです。それにおふたりと対面しているのも生きていたら絶対に無理だったでしょう」
「この娘はものわかりがいいですねえ」
カエルおばさんは実に優しそうな顔をしている。そこで、つい言ってしまった、悪気なんかないわ、こころに浮かんだことを真面目に、いや、ちょっと現実逃避はいっているかな。
「あのう、ひょっとしてここはムーミン谷みたいな場所じゃないですか」
互いに顔を見合わせていたからどうやら的外れだったようね。
「なんだいムーミン谷って」
今のわたしは説明を求められる立場じゃない、その正反対なんだ。
「いえ大したことじゃないんです。ものわかりいいと自分でも思います。続きを教えて下さい」
なまずおじさんはいかにもっていうふうにうなずき、淡々と語りだしたの。
「あんたはどこかで殺されたんだ。そのあとこの沼に捨てられた。ほら首にまだ絞め殺されたときのあざが残っているだろう。この鏡で見てみなさい」
さすがに血の気が引いていくのがわかった。手鏡を持つ指先は脱力しているのか、よく首筋を確かめられない。
「それとだね、殺されるまえに、強かんされている」
鏡がまっぷたつに割れる幻覚が直撃した。いくらなんでも酷すぎる、可哀想すぎるわたし、まだ処女だったのに。今度はひきつけを起こしたような激しい衝動が猛烈な速度で回転しはじめた。回転は長く感じられ、そのあげく怒りと悲しみに占拠されてしまったの。
「犯人は誰なんです。逮捕されたんですか、死刑ですよね、顔見知りだったりして、まさか同じ学校の生徒、、、そんな、、、」
「すまないが知っているのはここに沈んできたことだけだよ。もぐら先生が検視した結果とな」
なまずおじさんは顔を歪めながらそう話し、カエルおばさんはうっすら涙をにじませている。
「では、陸に上がれないんですか」
われながら飛躍した意見だと思ったが、そう問わないといてもたってもいられなかった。こみ上げてくる様々な感情は一息に沼から飛び出すだけのエネルギーを持っていたから。
「そうでもない、ただ、自由気ままというわけにはいかないんだ」
これから先が大事なところです。わたしにとっても沼にとっても。

夢の愛

ことさらまえぶれなく閉ざされたドアの向こうへ手をかけたのは、薄らおぼえでしかない顔がほのかに浮遊していたからであり、その手つきに異論をとなえるような思いはひそんでいなかったにもかかわらず、水の流れにあらがえない穏やかな諦観が影となって寄り添い、そしてあふれだすことを願ったゆくえが窮鼠の風貌にせばめられたので仕方なく、先客の装いと名分をすみやかにあたえ、さながらたなびく抹香の沈着さを取りもどしては、踏みしめた階段の感覚すら忘れている自在なおのれを知った。
水面を揺らすことなく落ちた幻影にちがいないそう念じた矢先、みなれた面貌が脳裏をよぎり、不穏な空気は夜風を呼びこんで、あたりに散らばった枯葉のようにかろうじて舞いあがろうとつとめ、どんよりした帷のすそをかいくぐる。
魂魄に魅入られているなど一蹴すべきところ、夜目にまぎれてまとわりつく蜘蛛の糸のごとく、暗転を覚えず陽光から遠のいた身には、迷妄にゆだねる心性がふさわしいのかも知れない。決して臆したわけでも開きなおったわけでもなかったが、ドアの先から誘いの声が伝ってくるのをなかなかふりはらえず、それならこの情況は悪夢とみなして、探勝の気概をたかめればよいと案じ、昼夜の変転に即すあの明朗な心持ちをいだきつつ、大仰なくちぶりでこう問いかけてみた。
「そちら側から見通せるとでもいうのか、あたり一帯はすでに占拠されているんだ。まやかしようのない実感が、いいや時間が、このからだには流れているのだからな」
いくらか声がふるえたのは意気込みばかりでなく、なんともこそばゆい、それにしては水面のさざれを見やる軽やかな傾注から逃れたふうな及び腰にとらわれたせいもあるのだろう。
背後に風とは別の気配を感じながら、しかしその気配に取り込まれることもなく、かといって消えさりもしないまま、虚ろな鼓動だけに耳をすませば、いつしか先客に導かれていたよう思えたこの形勢は実際ではなく、魂魄はおろか霊妙な作用さえ生じておらず、すべては閉ざされたドアのあまりに変哲もないありようにまどわされ、あるいはなぐさめられている様を、ぼんやり受け入れるしかなかった。


逍遥につきものの高い空を見上げてしまう身振りを忘れかけたのはおのずであろうか、こころのどこかで限りない跳躍を望んでいるのだが、億劫な顔つきのまま晴れ晴れしくもない調子にあわせるよう、曇天に隠された太陽の輪郭を夢想しながら、憧憬が秘める黒点のような影に導かれ旧街道を歩いていた。
気の向くまま足の向くままの想いが拡散されたからだろう、知った道幅はいにしえの風雅に彩られ褪色した切り絵みたいな、しかし定まることから微妙なずれを育んでいる間延びした景色によって牛耳られてしまい、眼に入ることごとくに神妙な奥行きを感じてしまう。
気分が高揚するのは、いつもこうした浮遊の場面に臨んでいるときだという念いを噛みしめてみると、増々もって意のままに辺りは変容を余儀なくされた。そしてあの顔さえ甘美な懐かしさにほころんでいるふうで、笙の音が醸す寂然とした、けれども野山と市井の写し画に点描された華やかな翳りが織りなす情景の重なりにいざなわれ、それは風琴の奏でる荘厳を呼び起こし、寞寞たる道行きは異相に転じて、もの柔らかな外観を呈する。花咲く音曲が染み入るごとく。
風に吹かれた背がわずかに屈む気がしたのも一興なら、うっすらと砂埃の立ち込めるなか目途を探り当てた錯誤が巻き起こり、寺社につらなる家屋の造りまで閑麗なたたずまいに映りはじめたのだが、まじまじと眺める余裕は等閑に付され歩を進めた。とはいえ、こどもの時分駄菓子を誰やらにねだった記憶にまとわりついた意識は写真機をまたもや持ち忘れている後悔に他ならなかった。
ただ悔やみの半減しているところを覚えた途端、明快な輪郭が見上げた空へ描かれたようで家々の瓦からにじみだした墨汁のひろがりに淡い青みを見出すと、まぎれもなくここは夢の空間であり、眠りのなかの小さな情愛が目覚めを欲していることに促され、写真の不在を補うかのように浮き足だった気分は、まるで前戯を端折った淫情に等しく、生唾をこらえるすべを投げ打ち、かわりに甘露をたっぷり含んだつぼみの艶冶な風情へと没する。雨水の人知れず樋をつたい、地下に浸透してゆく香しさとともに。
両の眼を見開くまでもない、すでに夢の時間をなぞる意識は迷宮から認可されており、あとは胸に敷きつめた焦燥のありかを求めるため橋づくしさながら、奥行きに反して現実の土壌から逸することのなかった道途を越えるだけである。
せせらぎと異なる急流に散らばる面影には色欲が純粋に不透明であった頃の、やはり特定できない温和な心持ちが宿っているのかも知れない。橋を渡る素振りだけ風の勢いを借りれば河の流れは視界より消え去って、眠りのなかの眠りは覚醒の障碍になり得ず、険阻な山道を踏みしめていた。

新緑のささやきと澄み渡った空気はしめやかに孤影をゆらす。
木立の間隙から降りそそぐ陽射しが苔むした石畳に呼びかけるほどに明暗が生まれ、次第に強まる傾斜の加減は彫像の意志を投げかけるよう見返ることをやんわり拒んでいるのか、それとも山頂にいたる道程には強引な魔手が地を這って、荒い呼吸を乞い願っているのか、いずれにせよ耳をそばだてるまでもなく、微かな湿気が肌に触れはじめたときには、岩清水を束ねた清涼な光景に近づいている兆しから逃れることが出来なくなっており、いやむしろ強迫めいた考えに両足は絡めとられ、あと一息でのどを潤す猶予を先送りしたい被虐すら呼びおこしてしまった。
眼前に開ける予想もしなかった源流との出会いが、玲瓏な水しぶきによって約束され、頂きに満ちあふれている。あるべき姿は絶景に違いない。
ところが脈拍を意識する緊迫に夢の常套句を当てはめようとも、その臨場感はより実際の展開に支えられ微動だにしなかった。ほどなくたどり着いた袋小路には石畳の趣きから大きく隔てられた人工的な砂防を想わせる堅固な形式が横たわり、ようやく下方を振り返ってみれば、まやかしは見事なまでに山間を漂って、今までの視界を厳かに裏切っていたのだ。
もっとも杓子定規な意想などはなから存在しない。あるべきものは覚醒まぎわの性急な欲望だけなのだろう。砂防めいた囲いには激流がたたえられており鮮烈な飛沫が頬をかすめた。と同時に下山の意志に押された。隠すまでもなく秘境へまぎれこんだ脆弱な探求心が萎えるのを退けることも叶わなかったからで、しかしささいな抵抗を試みたのは恐る恐る底なしの激流に歩み寄り、のぞき見るだけだったけれど、頬をぬらすしぶきは涙の役割を担ってくれたのだろうか、ぼおっと薄明かりの灯された眼中には遠い陽だまりのような静けさが忍び入り、清澄な淀みが現れると水中に魚影を発見した。

それは色こそ暗色であったが二匹の魚に違いなく、悠然と視界を横切っている。不意にこれまで見てきた夢の数々がよみがえり、魚影の戯れに別れを告げる間もないまま、今めぐり出した想いをこちら側へ持ち帰ろうと念じるのだった。