美の特攻隊

てのひら小説

名画座

雑踏からはぐれた感情は置き忘れられてしまい、すでにその光景の中へと包まれていた。

都会の夕陽を背に十年以上を経てその空間に佇んでいる。

胸いっぱいにひろがった得体の知れない気持ちは、ときの推移に抗わず、一定の場所に立ち戻るために、滑走路のうえをなぞって行くような、重力と申し合わせる関係を過分に了解していた。

郷愁につきものな、あの微量に埃臭さを深く吸い込んでいる錯誤も、夢のひとこまを起立させる名分において閑却され、歓びと気おくれがないまぜになった曖昧な、けれども網膜に焼きつく使命から逃れなれない淡い苦悩に支配されている。

漂う香りを知るよりも、この瞳の奥にだけあらかじめ情景が収まっていると確信する。

 

劇場のロビーには数人の顔があったけど、当然のように見知らぬ影となり行き交っていた。

この建物は戦後間もなくの造形と云うだけあって古びかたは年季が入っており、軽薄な懐かしさには丁重な拒絶が、濃密な思惑には飄逸な親しみが、足もとから天井までゆっくり舞い上がる調子となって迎えてくれる。

心得てはいたが、そんな雰囲気だけを求め訪れたわけでない。胸から浮き出る冷や汗に似た願いは、思いのほか俗物的な視線をたどっていたから。

「久しぶりです。憶えてますか」

彼の姿を横目で追いながら、ためらいなくそう話しかけた。

男は年格好が自分と同じくらいであり、しかも当時の面影をそこなうことなく颯爽と脇をすり抜けるところだった。

時間は止まっていない、立ち止まったのは雑踏に流されている心細さだと気づき、口中に苦い唾液を感じる。しかし多少のとまどいはこの都会の大空に吸いあげられるのだと思い直して、彼の目をのぞきこんだ。

「ええ、そうですね」

久闊に左右されるのが迷惑そうとでも言いたげに淡白な声で応じる。それは仕方のないこと、懇意であったわけでなく、名前も知らない、どういった関わりだったのかも覚束かなく、ただここで見知った顔を誰でもいいから認めたかったのだと胸に言い聞かせた。

ベージュ色したコートを羽織った姿勢にも、素っ気ない態度をまとっているような気がして、失意と呼ぶにはいくらか大仰な寂しい心持ちになったけど、元来こんな男だったのではと記憶をそれ以上たぐり寄せないままにしておいた。

そこからどう会話をつなげればよいのか思案してみるが、実は当惑にまかせた投げやりなこの距離感の方こそ、重力が働いており均一に居並ぶことを要請しているに違いない。そして無言のうちに見つめるまなざしだけが、劇場のロビーにふさわしいのではないかと思えてきた。

男は口数が少ないだけでなく、相手に向き合う表情を出し惜しみにしているみたいな冷たさがあった。

せわしい様子でカウンターの奥にコートを脱ぎ、なにやら支度めいた素振りを見せ始めたので、小鳥たちが薮の中から出てくる一瞬が約束されている自然の流れを思い浮かべてしまい、合間を数える緊張によって縛られ、飛び立つ鳥の羽のごとくに彼もまたこの場から立ち去ってしまうではないか、行動を観察している身分がどこかしら蔑まれているのではないかなどと、卑屈な意識が芽生え、悲しい空気だけで呼吸している立ち居から後ずさりしたくなった。

だが、彼の影をも見失うことなく、小鳥の妄想は夕陽にさらわれてしまった。

男は劇場の従業員だった。そうなのか、それで彼に面識があったのだ。コートの下は黒ズボンに白シャツのいたって月並みな格好だったが、不意に目にした彼の靴の先が異様な造りになっているのを知った。

ちょうど親指の付け根あたりから網タイツ状の靴下が覗いており、つまりその黒い靴はサンダルに近いデザインだったわけで、しかも英国調の飾りが施された皮の質感は、夜にまぎれる為に、また夜から浮き上がる為の光沢を放っている。物腰や態度、それに表情からは類推するのは不可能な生々しい足もとだけが何かを訴えているみたいだった。

今どき七三にきっちり整えた頭が似合うのは彼くらいだろう。決してこころの底から感情を発せず、長いまつげに守られた切れ長の目と同様、笑みもこぼすことなく、用件のみを渇いた風のよう口にするその薄い唇もまた、後ずさりする相手に対し距離をもって魅了する道具としての肉感を幾らかさずけられている。

胸にひろがる気持ちは曖昧なものから、より霧深い森の彼方にさまよいだす芳香を得たせいか増々、滑走路は道行きであると信じてしまった。

「今宵の映画は」

なんて気取って尋ねてみたいところだったが、生憎あまり興味がわかない類いのアクション映画なのは大きく貼られたポスターで瞭然としているから、奥に通じる扉には近づこうとしなかった。何人かの客はごく普通の面持ちでスクリーンの影へ自然に招かれて行った。別に目線を泳がせる必要もないけど、そうした見知らぬ人々に敬意を送ってみたかった。

そのときだった。ひとりの女性が小走りでこちらに向かってきた。

「ああ貴女だったのか、まだここで働いていたんだ。随分長いですね」

そう声に出して接しかけたかったが、彼女の名前もまた憶えていず、男と同じで別段慣れ親しんだ記憶もない。なにより男と違って結構老けてしまっているのが心苦しくもあり、それがまるで自分にとっては禍機であるような、方向をあやまった憂慮が先走ってしまっている。

おそらく凝視する不審な目を知ったうえ女性は一瞥をくれただけで、いつもと変わらない風を身にまとうよう男と立ち話を始めた。

自分ひとりの唯一この都会で知りうる人間、深くも浅くもない、どちらに転んでもよさそうだけど、きっとどちらにも関わることのない人間、だが、この劇場にもっとも似合う気がして仕方がなく、こうやって距離をとりながらも同じ空気を吸っているだけで、ここまで来た甲斐があったに違いない。

十年の歳月は考えていたより朽ちてなく、刻印する使命に忠実であるべきと見なしてしまった女のあらわな皺にしても、至極当たりまえの成りゆきであるはずだったから。

女は陽気な声を上げていたし、男は渋い顔をつくりながらも足もとを組みかえたり、劇場が職場として存在している実感をそれなりに味わっているようだった。

よどむ気配に違和を感じないのは、常に夢が創出している雰囲気を奇妙だと薄々知りながら、重力からの解放を求め、そして瞬時にしてそれらを忘失してしまうからである。

天井から雨が降るよう、女は唐突に着ている服を恥じらう素振りもなく脱ぎ捨て、銭湯の硝子戸を開ける手つきを持って裸身で奥へと歩んでいった。

小雨は水滴となり硝子をほどよく曇らせている。いつの間にか映画館は変貌を遂げたらしい。瞬きをくり返すまでもなく、奥の様子が、女のうしろ姿が、こちらに透けて見えているから、奇異な感覚は逃げてしまい、代わりにつまらぬ惑いに居場所が狭まれている弱みが台頭しだした。何故ならここに何をしに来たのかつかみ取れないと云うよりも、劇場の転換に立ちつくしているしかない惨めな気分に苛まれていたからである。

これは無限に続くかも知れないと悪夢に堕しかけたとき、男が黙ってカウンターに缶ビールを差し出してくれた。彼の目は細まったわけでもなく、口もとを和らげもせず、その行為はただひたすら十年前から続けられているまじないであると云う趣だった。ビールを受け取る手は少し汗ばんでいた。

相変わらず男は無口を通し、さすがに郷愁も醒めかけ、どんな時計がこの情景を刻んでいるのだろうと辟易しかけた矢先だった。

男は素っ気ない表情を保持したまま、今度はA4サイズほどの用紙を二枚よこした。

手にして見ると、それは色彩を施されていないデッサン画であり、重なっている下の二枚目はまったくの白紙である。紙質は男の唇のように薄く、だが空気抵抗と云う言葉を連想させるしたたかで儚い手触りだった。

デッサンは人物だったが明瞭な記憶はすでにない。ただ右下に「KLIMT」と記されているのに驚き、そうなのかとだけ彼に問うてみた。卑屈な態度の皮を剥くみたいな歓びをもって。

想いは忘れなれなかったけど、宙が舞うなら時間も逆巻くのだろう、男の返答も、反応も、その絵もみんな夢のなかに置いてきた。