美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜6

とりあえず客室になるのかな、なんか物置き部屋って呼んだほうがしっくりするようだけど、気遣いなのかひがみなのかわからなさに我ながら嫌気がさして、しきりに恐縮がっていたカエルおばさんの面持ちがまぶたの裏にしみこんだころにはもう意識は薄らいでいたわ。
ベッドのきしみも古めかしいのになぜかしら気分がよかったの。
眠り落ちる寸前の光景は奇特なことにデジタル時計が点滅する様だった。わたしの記憶は残存している、今は散らばり色あせているけれども、必ず焦点で結ばれるときがやってくるような気がしてならない。
それは逆効果だって聞かされたけど、でも未練や執着のみなもとですからね。たしかに呼び覚ます行為自体に難があるのはうなずけるし、幽霊の本義からはずれてしまうって笑うに、、、いや泣くか、泣くに泣けない定めが立ちふさがっていますよ。ところが眠りのさなかにかいま見る情景が生前のあり様かも知れないなんて、好奇心どころか本能までつきあげてくる言い方は耳にこびりついて仕方ありませんよね。
もし本当だとすれば睡眠中はまさに此岸への架け橋になる。泣き笑いです、うれし泣きです、ならいっそのこともう一度死んだらよみがえるのでしょうか。いやいや、そうは問屋はおろさないでしょう、幽霊は不滅みたいですから。
見世物とか飼いならされている境遇とかに合点はいかないけど、背後に計り知れない意志がひかえているとしたら、それはそれで見ものにちがいありません。はい、見世物から立場を逆転しましょう、そうしましょう、なんて考えに酔っているうち、睡魔はそつなく役割を果たしてくれたみたい。

はっと目覚めた。瞬時に脳裡をよぎっていったのはデジタルじゃなくチクタク時計の秒針だった。ほっとしたわ、沼暦10年はもうたくさんですから。
あたりをみまわせばベッドの脇には花柄のカーテンが閉じており、花模様が生き生きと浮き立たせたぬくもりが目に安らぎをあたえてくれている。これってお日様、、、そのとき天啓を授かったみたいに全身がびりびりしてしまい、縮んだのか開いたのかよくわからない瞳孔は不可避的にカーテンのとある一点を凝視することで、思考をなめらかにたぐり寄せるすべを得たわけです。ちょうど鍵穴と向き合ったときに感じる絶大なる期待ですね。
こういうふうな意想でした。溶液なんだ、この沼はある溶液で充たされているが、実際にはなにも違和感が生じないところからほぼ気体に近い、もっと勘ぐればあえて水棲動物的な錯覚を引き起こすためにこんな仕掛けが設けられているでは。
どうして早く理解しなかったのだろう、沼なら上方へと泳ぎまわれるはずじゃない。ついつい目先の事象に圧倒されっぱなしで冷静な判断の鍵を忘れてしまっていた。
台所の火もパイプから煙も出るわけです。第一に魚をまったく見かけない。そりゃカエルとなまずの住人とは出会いましたけど他には誰のすがたもありません。まだまだ日が浅いからと考えるのが無難なのでしょうけれど、これは由々しき問題です。さっそく訊ねなければと、環境から住民問題まで一気に飛躍したところまではよかったのでしたが、今度は天啓とは正反対の感覚にうしろからしがみつかれました。ぞくぞくした寒気とともに。

夢を見た。そうなんです、華々しい霊界の一夜にして夢はわたしを抱擁してくれたの。で、どんな内容だったかといえば、これがどうも抽象的すぎてうまく言葉にできない。でもつたなくとも思い返さなければ。
夜よ、ちいさな灯火がいくつか穴を開けたみたいな感じで周囲に馴染もうとしていたから。あんな物悲しさは夜に決まっている。夢中っていうけどあんがい平然とした心持ちだったし、天空を仰いだりしない、きょろきょろもしない、まさか思索に耽っているとは思えないけど、ぼんやりした心境は微風に揺れる灯火に意を介さなかった。つまり当然のごとく夜景へとけこんでいたのでしょうね。それだけしか思いだせません。
しかし収穫はありましたよ。なまず家での眠りはおそらく夜でしょう、お昼寝、とんでもありません、いくらわたしが疲れているからってそんな心配りでふたりも寝室に入ったとは、、、いえ思い過ごしではなく実に自然な雰囲気で沼底に夜は訪れていた。
それさえ誰かの目論みだとしたらもうお手上げです。この朝日も作り物になります。だからこの辺で妥協するのが賢明だと思った。懐疑にきりはない、とりあえず自分のまなざしの及ぶ範囲、感ずるべくして得たものを土台にして切りだすしか方法がないもの。それらが臆見によってもたらされているとしても、やはりある程度の質感が重視されるように、肌に触れる感覚に従ってみるしかありませんよね。
沼と思い込んでいた場所がそうでないという確証を持ち始めたなら、あとは可能な限り予断と相談しつつ、まあ焦るもよし、のんびりもよしとにかく前に踏み出さなければ答えはけっして導かれない。もっとも猶予なんてひかえてくれているのかそれこそ冒険じみてますけど。
怖れだてありましたとも、ふっと手軽な扉に入りこんでしまったら10年ですからたまったものじゃないわ。いくら不滅とか永遠なんて諭されようが、時間は時間よ。わりとまともな思考でしょ。ええ態度のことよ、投げやりじゃない、それにふて腐れてはないし、臆病小心は仕方ないとして身構えは整えているつもり。殺害されたって事実には正直なところ段々と悔しさが募ってきたけど、はからずも意識は明滅してますからね、少なくともカーテン越しの明かりと、夜の夢をつかみとっているわ。恨みはいつかはらせればはらすことにしておこう。

「おはよう」
「おはようございます」
朝の挨拶は気持ちのいいものですね。朝食もまた野菜ごろごろのスープでした。パイプの煙も健在です。
「夢はみたかね」
まるで朝刊は読み終えたのかって問うているような口調でなまずおじさんが言いました。
「はい、夢の一夜でした。ぼんやりしてよく覚えてないのですが」
「そうかい、最初はそんなもんだ」
「えっ、ということは次第に明確になるって意味なんでしょうか」
「すでにそうなりつつあるじゃないか」
「あのう、どういう、、、」
「眠りつく前に考えごとしなかったかい、それと目覚めを疑ってみようとした」
「よくお分かりで」
わたしは誘導尋問の案配で言葉をそよがせるしかなかった。
「扉の奥も決して悪い時間ではない。それはあんたが一番心得ておるはずじゃ。無念が先行しているのはその確たる証し、だいじょうぶ信じる信じないではなく、見つめるか見つめないかなんだ。あんたは沼を見渡した、といってもごく一部分だがね。あとは向こう側からやってくるよ、いやいや白馬に乗った王子様がさっそうと駆けてくるのではなくて、来訪とまなざしが結びつくんだよ。風と風車のようにな」
「はあ」
「それから生前意識の到来は必ずしも禁物でない、あくまで道のりを悪くするだけということさ。あんたは子供じゃない、ひとりで顔も洗えるし、食事もできる、言葉も喋れる、口答えだってその気になればできる。なるだけ早く自分の家に向かいなさい」
「ええ」
力強い声にはならなかったけど、誰かにすがりつきたい思いは軽減されていた。
「二三のことなら質問に答えよう。あまり教え過ぎるとかえって仇になるからな」
その意味合いはそれとなくかみしめることが可能だった。むしろ自分から望むべきだったわ。では絞りこまなくては、、、なにしろ不思議の世界ですよ、死後なんですからね、初体験のうえ、現実という馬車に引かれるれている確信すらなく、色々聞きたい知りたいのは関の山、苦慮するより軽やかとまではいかないけど、口笛みたいな問いかけが流れでたの。
「ではお聞きします。ただの幻覚なんかじゃありませんよね。つまり一切が自意識で構築された世界であり、しかも負の重みを背負っている。ふたつめは重みは仕方ないにしろ、この沼は人工的な仕掛けが施されていませんか。昨日おっしゃってましたあの言葉です。もし知らぬ存ぜぬが方便ならそれ以上はけっこうですけど、これから他のひとたちとめぐりあえるのでしょうか。おじさんおばさんだけなんていくらなんでも寂しい、ごめんなさい、こんなにお世話になっておきながら」
「それだけかい」
「これだけです」
わたし少々意地を張ってましたね。あとで後悔しました。
「夢の件はいいんだね」
緩んだ意思はときに余計な緩みを願ったりします。けれども決して自暴自棄な性根に毒されていなかった。
「夢こそが自在と希望だと気がつきましたから、秘密は自分自身で見届けようかと」
「たいへんよい心がけじゃ。精々気張りなさい」
「ありがとうございます」
「さてと、これでわしらともおしまいになる。あんたは自分の住む家へと、そしてふたたび顔を合わせることはない。だからしっかり話しておくよ。だが微に入り細をというふうにはいかない。それは了解してもらえるだろう。永遠と居並ぶはめになりかねん」
「わかりました」
なまずおじさんの表情に永遠なんか似合わない。居並んでいるのは絹のような感触の厳しさと、歯ぎしりしたい優しさだったわ。
それにひきかえ、、、わたしのこころに広がった波紋は緩やかではあったけれど見苦しい線を描いていた。
結局は怨念が支えになっているだけで、口先は見苦しさをごまかすためにあえて節度を生み出そうと躍起になっている。とはいえ、これがきっかけでも別にかまわない。念力に善悪があるのかどうか試してみるのもいいかもしれません。

青春怪談ぬま少女〜5

水底はなるほど水底なのね。
てくてく歩いたつもりでもときおり地に足が着いていないような、浮いた感じがする。そしてカエルおばさんの、
「ほら見えてきたでしょう」
この一声ですっきり背筋が伸びて眼球は遊泳しはじめた。
たしかに建物が見えたわ、ぽつんとした一軒家だけど、荒野を思わせる沼の地平では陽炎のようなゆらめきに守られ、慈しみがにじみだしている。
すぐそばまで来てみるとトレーラーの安定感を備えた平たい箱形の、奇妙といえば奇妙な造りだった。屋内はいたって簡素、寝室は隣の部屋なのだろうか、腰掛けるようすすめられたテーブルの置かれた室内に無駄な装飾は見当たらない。洗い場もすぐ近くに面しており早速なべに火が通される。
ここは水底ではないわ、ちゃんと火が燃えているじゃない。すでに水の手応えからはほとんど解放されていたので、別にあらためて驚くこともなかった。もう空気と同じだもんね。幽霊というよりか半魚人になってしまっのかしら。そのほうが自然に思えてくるのだから慣れってある意味怖いわね。
「はい、たくさん召し上がれ」
想像していたとおり、ムーミン家の食卓とそっくりの料理だった。やや大きめのスープ皿、これ一品。クリームシチューのような淡く暖かな色合いが食欲をそそる。遠慮がちだった気持ちはすっと吹き流され、鈍いひかりをゆったり放っている銀色のスプーンを差し入れたの。おやおや一杯ありますよ、具が。
視界が曇ってきた。湯気のせいかな、違うこの匂い、ひとくちも食べてないのに美味に感心、いや感動してしまっている。ついに涙があふれだした。
「あらあら、どうしたの」
カエルおばさんは口をもぐもぐしながら心配そうな視線を投げかけてくれたわ。
「いえ、うれしくて。いただきます」
あとの模様を説明できないのが残念、だってにんじん、じゃがいも、豆らがごろごろとスプーンで転がせるくらい具沢山なうえ、シチューのとろみで運びこまれる美味しさといったら、それはもう、わたし夢中になって食べてしまったから。
紅茶もいただいた。なまずおじさんはパイプをくわえていたので、思わず吹き出しそうになったわよ。これでシルクハットでも被っていれば、まるでムーミンパパじゃない。
「ごちそうさまでした。わたし幽霊らしくなれたように思います」
「そりゃ、よかったね」
これまでの半年、わたしは眠りついていたのだろうか、何をして何を考えていたという覚えが呼び返せない。間違いないわ、意識がめぐってなかった、めぐっていたとしても微弱すぎて視界は暗幕で閉ざされたまま神経伝達も滞っていたのね。
「血がかよっています。幽霊なのにおかしいでしょうが、そんな感覚がみなぎっています」
「あれと一緒だよ、手足を切断した患者が数年たってもなくした肉体にかゆみや痛みを感じるってやつ」
なまずおじさんの吐き出す煙はもっそりして、さながら小さな雲みたい。
「ではその感覚はまやかしなんでしょうか」
「どっちでもいいんだろう。まやかしでも本物でも」
「そうですね」
たった今の味覚も、と言いかけて言葉を慎んだ。食、住と進んできたんだ。まだほんの入り口にすぎない。ここで疑問をいだくこともないわね。つまり自分から様々な不審をつのるより、その場その場を検証するような冷ややか態度が大事だわ。もちろんつぶさに検分するほどの自信はないけど。
「今夜は泊まっていきなさい。あんたの家は遠い」
紫煙とともに吐き出された言葉に愕然とし、せっかくの血の気が引いていった。
「わたしに家があるのですか」
「そうだとも、あるよ」
「どうしてです。わたし、この沼に家を買った覚えはありませんし、住んだ記憶もないです。だとしたら誰が用意してくれたというのでしょう」
「そうだな、これはきちんと話しておこう。あんたは幽霊として目覚めたんだ。わかるね、死んでしまった人間があたかもよみがえったごとく意識を持っている。そうした者は登録されるんだ。生きている間には住民票が必要とされたよう、ここでは目覚め人は登録証を携えていなくてはならない。お役所が決めているわけじゃないよ、ここは死の世界だ、国家も警察も役人も商売人もいない。すべては恵みのごとく配給される。おっと、どこからかって聞いても無駄だね。わしも知らんのじゃ。しかし最低限のルールはある。幽霊であることをよく自覚する、これさえ守れたら永遠を手にしたに等しい」
応酬するつもりはなかったけど、涙よりたやすく意見が口から飛び出してしまった。
「わたし子供のころから心霊とか神様って信じていませんでした。それなのにこんな事態を受け入れようとしている。悪夢ならお願い早く覚めてほしい、でも現実なら見つめる以外になさそうだから、ものわかりはよくするつもりです。何度も出てきますね、この文句」
そう言ってから紫煙を見送っていた。とても熱い心情で。かなりの合間がたなびいたと思う。判決を言いわたされるような高鳴りが序曲にふさわしいかった。

「神様が世界を作ったのか、どうかはわしの答えられる範疇をゆうに越えている。同様に幽霊という存在を認可している不自然な世界に対してもだ。人間には意志があり生きる希望があり、底知れぬ欲望がある、しかし根源的な目的を勝ち得ないみじめさも同居させては嘆きを忘れることがない。そもそもすべてが偶然であってたんなる確率の問題だとしたらどうする。悲しいかな、人間はそうした無為にはたえきれないんだよ。常にどこかに、遥か彼方に、覗けば覗くほど過去の影しか見えないというのに、ひたすら秘密の鍵穴をこじあけたくて仕方ないだな。秘密なんてないかも知れないのに。
そこで幽霊だ。なぜと問うさきには世界認識と同じく、袋小路につきあたるか、天上崇拝に身をゆだねるしかないだろう。われわれはんだはずなのに意識を持ち歩いているじゃないか。何者かに飼いならされているんじゃないかと考えてみたことがあった。人影こそ表沙汰にしないが、どうやら番人がいて登録証を発行しているのは周知のことなんだ。いいかい、そのうちあんたなりの解釈なり認識が加わればそれでいいんだけど、今は傍観しているのが望ましいよ。あんたに危害をあたえる奴は誰もいないし、文句を言う者もいない」
「じっとしていろって」
「ああ、どうあがいてもこの沼から出るのは不可能なんだ。幽霊を演じるとき以外はな」
「えっ、なんて言いました。わたしたちすでに幽霊ですよね、それをなぜ」
「演じるというのかい。これは憶測の域から脱しえないんだがね、幽霊って希少なんだよ。言っただろ目覚める者もいるが眠り続ける者もいる。死んだ人間が全員幽霊になっていたら収拾つかなくなる。だから化けて出れる、つまり意識を得た者は非常に珍しいんだ。鬼太郎のおやじだって幽霊族の末裔だぞ」
「あのう、それって目玉のおやじのことですか。漫画ですねよ、一緒にしていいんでしょうか」
「そうだとも、別々にする意味合いもないだろう。先見の明があったというわけだ。でだよ、わしらに希少性あるとしてだ、それを管理している、ほら動物園とか水族館を思い出せばいい、大事に大事に育てられ観察されているってことになる。ひょっとしたら見世物になっているかもな。幽霊でも妖怪でもなんでもいいんだよ、珍しいこれが決め手だ」
「半年まえにはそんなこと聞いた試しがないですし、少し飛躍しすぎてませんか」
「じゃあ、この現象をはっきり説明できるのかい。集団催眠あるいはどちらかの幻想としておこうか」
「そんな、わたしにはなにも」
「あんたがあの扉の向こうで考えこんでいる間に、これは言うのをためらっていたんだがね」
「なんなの、かまわないから言ってください」
「沼暦で10年が過ぎた」
「どういうことですか」
「時計はあるんだ、デジタルだよ。おそらく外の世界の時間と流れは変わらない。あんたがいろいろ思索したようにわしだって考えに考えたよ。来る日も来る日もな、ここは苦難こそないが、誰もが倦怠という悪魔に取り憑かれてしまう。あまりいっぺんに話しこむと受けきれないだろう、ひどく疲れた顔色じゃ」
「わかりました。さきは長そうですものね。あわてたりしません。のんびり骨休みでもする気構えでいきます」
「おお、そうかい、それがいい。もうおやすみ、そのまえにもうひとつだけ。わしらは眠っているときにどうやら水上に浮かびあがるそうだよ。睡眠には意識がないけど夢を見ることはあるだろう。もしかしたらそれが外界のすがたかも知れんなあ」
紫煙は掻き消えており、苦渋に満ちたなまずの表情が目のまえにあった。脇のカエルおばさんはとても悲しそうな顔をしていたわ。夢か、出口はあるじゃない。わたしすぐにでも眠りつきたくて仕方なかった。わかるでしょう、このはやる気持ち。

青春怪談ぬま少女〜4

時間はこれまでと同じでよどんでいたけど、ところどころ透明な感じが胸に入り込んできたから、ひどく沈滞しきっていなかったみたい。
すでに水圧の作用なんか身体から離れているし、沼底は陸地と変わらない居心地に落ち着いていたわ。あくまで無心に近い場合に限られていたけれど。
で、その透明な感覚がちょうど水玉模様みたいに思えてしまった。これは妙なイメージですね。きれいとまではいかないけど決して悪い見映えではなく、、本当はさわやかな気分になったのでした。どうしてこんなこと言うのかって、、、それはなまずおじさんが語りだした説話に促され、浮かんでは消えるシャボン玉の効果を多分に含んでいたからじゃないかしら。
みどろ沼の秘密がいま解き明かされようとしている。死人は意識を取り戻すのでしょうか、悲願は隠れたりえずにしっかり大地に、あっ、この場合は水底だけどしっかり根を張ってわたしを包摂する。まるで映画を観ているような緊張感がみなぎりました。
抑えきれなくなった疑念がはっきりした目覚めを引き起こし、質問攻めの形勢になったところから幕は開いたのです。はかなげであろうとも直感を認めてくれたなんて素敵なことだわ。とすればこの沼には掟というか、仕組みというか、つまり何らかのシステムが稼働しているように思えて、意識すればするほどに時間との距離が計られ、反対に遠のいてしまった出来事が身近に迫ってくる。これは正常な感覚でしょう、卑屈なため息や芒洋とした夢はもういらない、今を感じるんだ。

「わたし身なりから高校生と自己判断しました。それに切れ切れながら学校での光景を短い間だけど張りつけられます。誰に殺されかはわからないのでしょう。もちろんつき詰めるほどにはらわたが煮えくり返りますよ。しかし沼に沈んできた事実からしか始まりはないのですね。あなたたちを見ていてそう確信しました。だから生前の記憶を取り返そうとは考えていません。まったくと言えば嘘になるけど、とりあえずここでの暮らし方を学びたいのです」
「ああ、いいとも」
なまずおじさんの語気は柔らかい。わたしは又またしくじりの予感におびえながらも問いかけてしまった。
「ここに来て日まだ浅いってことでよろしいのですか。聞き分けのない子供をなだめすかすふうにたっぷり歳月かけて意識がめばえたとは思われません。だってわたしはそうじゃないのですよね。ではどれくら前からここにいるのでしょう。現世では西暦で時代を表していました。幽霊が発生する未知な領域ではおそらくそんなものとは別の暦があるのではないですか。スタートレックだと宇宙暦ですからさしずめ沼暦とか、あの世時間なんていうのかしら」
スタートレックとやらは知らないが西暦は分かるさ。月日の経ち方もな。あんたは半年まえだった。眠れる、、、ここでは死者はそう呼ばれているんだ、でもあんたみたいに目覚める者もいてな、それは簡単に言えば幽霊ってことになるんだよ。ところが当人はよく事情を理解できないのか、現状否定しながらまどろんだり、なかには暴れはじめたりもするやっかいな奴もいる。
わしらはそこには一切関わらないし姿を見せることもしない。それにいくら暴れようが発狂しようがここの水圧は勝手気ままを放置したりせんよ。やがて生花がしおれるみたいに大人しくなるのが定石、そう思わんかな。沼暦ときたか、そりゃあるといえばある、しかしあってないともいえるんじゃ」
疑心をはさまず素直にうなずけた。
産声をあげて誕生したのち、世界を手探りし見聞きし、空想、言葉を介して切り開いていった頼り気なさ、強靭な意志を宿している実相には覚束なかったけど常に手応えは鮮明な感情をともなっていた。喜怒哀楽をバラバラに飛ばしつつも、不確かな連動は呈をなしていたから、そこにあるなんて実感をかみしめてみる意欲は持ち合わせていなかった。家族のなかで育ち路地の奥を迷路みたいに恐がっては次第にちいさな地図が作られ、自分をとりまく環境が把握されたころには保育園に通っていたんだ。
きっとここでも似たような発展が望める。沼であってもう沼でないじゃない、水を感じないくらい自由に歩きまわれるし、なまずやカエルの顔を変だとも思わなくなっている。赤ちゃんと違ってすでに言葉を習得しているのは驚異だわ。死んだら無なのに言葉が先行している。お経じゃありません。
こうした考えを亡きがらは抱えこんでいて、なまずおじさんのもの言いに首肯してみても不可思議と意気込みは抜けたりしない。しないどころか段々わくわくしてきた。
「ないものは今度でいいです。難しいそうだから、それよりあるものを教えてくれませんか」
「よろしい」
「どうして自覚が孤独へつながったのです」
「それはあんたが一番よく知ってるだろう、初潮を迎えたときを思い返してみなさい」
「よくわかりませんけど」
「そのうち解せるさ。太鼓判を押すよ」
「はあ、そうですか。では時間についてです。あり得る方をお聞きしたいのです。西暦とは異なるんでしょうか」
「西暦なんてたかだか二千年、紀元前とて同じ原理じゃな。この沼もそこらへんは一緒だよ。24時間は24時間で朝昼夜は繰り返して四季がめぐる」
「ということはここは日本なんですね。そう日本語で喋っている。わたしの推測では沼のすがたを借りたあの世であって次元も違うだろうから、自国にこだわる必要もないのかなと」
「こだわるもなにも日本語で話してるじゃないか。次元うんぬんはその通り同じ時間が流れている。ただし、わしらはこのまま歳をとらない。あんたもずっと女子高生だ。死者は成長しないのさ、魂は別だがな」
納得するべき箇所はそうしたらいいし、疑わしい部分はとりあえず脇によけておこう。わたしの執拗な問いかけに対してややいら立っているふうにも映ったけど、なまずおじさんは根気よく習い事をを仕込む調子であれこれ解説してくれた。
息継ぎするのを意識しだしてからその間合いに静かな気配を感じたあたりが一段落といったふうです。ではそこまでを一通りお話しましょう。

次元の相違に関してはあまり驚きはなかったけど、日本のどこかの別次元って解釈は妥当だと思うのね。わざわざ外国に存在する必然性はあり得ないし、我が国に西洋の幽霊が訪ねてきたって話しはたぶん聞いたこともない。
土地は土地なのよ。とすれば異界は案外すぐそばにあるかもね。みどろ沼の名の由来はなまずおじさんも知らないらしく、肝心の場所の特定にいたってはあやふやにはぐらかされてしまった。何県何町なんて聞き方したのが悪かったのかしら、まあいいわ、いずれ明らかになりそうな気がする。
それより永遠の女子高生って凄すぎる。うれしいのかもったないのか、価値の計り方自体がよくわからなくて、混乱してても仕方ないから気分を泳がせたまま、横で黙ってひかえているカエルおばさんの顔を見てたら急にお腹が空いてきてグルグル音まで鳴りだした。
恥ずかしいというより脳内活動に押される勢いでこんな考えがよぎる。きっと他にも住人がいるに違いないわ、まだ見えないだけらなのよ。
これも自覚の問題みたいなので言及はできませんけど仮にですよ、沼の畔にさえない中年男がたたずんておりまして、わけあってここに飛びこんでいつしか目覚める、そしてわたしと出会う。いえ、出会うっていっても偶然ね、すると中年男はわたしに恋こがれてしまい、しつこくつきまとわれたりする。わたし永遠の女子高生なんですからね、モテモテで困ってしまうんじゃないかしら。もっとかわいい子が現れたところで不変は不変よ。
そのうち相手に対する気持ちが見た目じゃなく、優しいこころなのだって思い直し見た目のさえないその中年男と結ばれたりするのでは、、、もちろんデートを重ねてお互い認め合うのでしょうけど。
なんて想像をめぐらせてしまったものだから結婚制度について訊ねてみたの。
「あることはある」
なんとも端的なひとこと、まったく幽霊だって変わりないのね。それと家、住むお家よ、どこにも見あたらないじゃないの、さっきまでの長く感じられた扉の謎はさておきこれも「いずれ見れる」でばっさり。
じゃあ食事、お腹へったなあ~、これは実際そうだったので、いったいどこでどうやって食べているのですって声を張り上げてしまった。するとカエルおばさんが「今からうちにいらっしゃい」って言ってくれたの。
もう半泣きだったわ。ちゃんと食べれるのね、なんだって食べるわよ、嫌いな干し椎茸もピーマンも食べる。そうと決まったら問答は道すがらってことでみんなてくてく歩き始めた。
途中で少しだけでもみどろ沼の一端が見えてきた喜びがわたしを陽気にさせ、能天気へ傾かせ、ついつい気がかりだったにもかかわらず禁句とこらえていた懐疑をもらしてしまった。どうしてふたりは人間の顔をしてないのですかって。
口を滑らしてからあわてて申しわけなく肩をすぼめたみせたけど笑い声しか耳に入らない。そして一本とられたのよ。
ムーミン谷のみんなは仲良くやっているじゃないか」ってね。
わたし試されていたのかあ、なんて今度は肩を落としてしまいました。現世でもひとの詮索をするのはあまり好ましくありません。幽霊にだってこころはあるんだ。だから化けで出る。早く出たかったのは隠しきれない心持ちだったけど、先にご飯をいただこう。とっても楽しみだわ。

青春怪談ぬま少女〜3

「もう立派な幽霊だよ」
えっ、誰がつぶやいたの。
独り言じゃないわ、たしかに耳もとへ届いた。優しく厳しくもあるような、それから不気味さがしっかりまとわりついている。
仕方ないのよ、時間をとらえるのだってあやふやだし、おまけに記憶があちこち散らばりすぎて、はなからつなぎ合わせようとか無理なのもわかってて、それでも意欲だけは波平さんの毛みたいにちょこんと乗っかっているの。あっ、波平さん思い出した。座頭市ムーミン谷の次にやってきたわ。
しかしその先がですねえ、どうにも曖昧なんです。これが記憶喪失とか記憶障害ってことなんだろうな。そうした認識はありますよ。なんてえらそうに言うのは結局なげやりな口調のほうが本当らしいと思ったからで、空威張りとか捨て鉢ではありません。
女子高生だったし、たぶん今でも、、、学校には行ってないけど制服着てるし、同級生の面影や校内の様子はうすぼんやりでしかないにもかかわらず、わたしを見えない衣でそっと支えてくれている。
死んでしまって沼底を徘徊する意識にとってみれば生前の記憶はただひたすら、未練を呼び寄せるだけかも知れない。そしてそれがどれだけ辛いかくらい考えられる。だから、このもやがかった状態は正常なんだろう、きっとそうだわ、鮮明な物覚えなんて今は必要ない。だったら最優先されるものは、、、もう我ながら呆れてしまいますね、この堂々めぐり、早く出口を得たいがためなんだろうけど反対に自覚から遠のいているような気がしてきた。

と、まあ、あれこれ思い惑ったのも一瞬だったのか、一年がかりだったのやら、ようするにわたし立派な幽霊である自分のことを認めたくなかったみたい。
化けて出てやるなんて誓ったのも、沼のほとりを夢想したのも、ただひたすらここから逃げだしたい一心だったのだわ。地下道が延々としてきりがなかろうが、とにかく目についた扉に引きつけられ、さらなる地獄だとしても先へと踏み出してみるしかすべはなかった。神様にすがったのはいい加減うんざりしてきたから、悟りを口にしたのも仏様を頼りにしたからだった。どんずまりのこころよ。
まだ死んだって事実から離れ去ろうともがいている。それでもですねえ、こうして意識があるのですから、さほど非難されなくてもいいのじゃないですか。誰も非難してないけど。
ものわかりがいいって誉めてもらったじゃないの逆に。馬鹿みたい、ちょっとばかりおだてられたりしたら、すぐ調子にのっていい子ぶってしまった。わたしって妄想好きだったのね、だからあて推量をまるで先導された道のりであるかのように飲み込んで、未知なる領域に夢を託したのだわ。自分で言うのもなんだけど、なかなか前向きだと思ったんだけどなあ。
けど死人には無用か。扉に飛びつかないでなまずとカエルのおふたりさんを探すべきだったかも。そしたらおしゃべりを楽しむ特権は保たれていたはずよ。かなり有意義で不可思議で、しかもときめきを秘めていたかも知れない。
いなくなった影より眼前の可能性にすがるってやっぱり欲深いわね、死んでもこうなんだから案外すてたもんでもないわ。いけない、いけない、またまた自己肯定に走ろうとしている。
苦笑じみた顔つきは鏡なしでも十分に想起できた。寂しさと悲しさを取り残してみるとひたすら渇いた気分に落ち着き、足が止まった。そのときよ、声が間近で聞こえたのは。間違いない、わたしに話しかけている。

「早く出てきなさい、いつまでそこにいるつもりじゃ」

なまずおじさんの声だった。続けて「そうよ早く」ってカエルおばさんが念押ししている。
とても懐かしかったわ、百年待った、千年待った、それくらい感情が沼全体に満ち満ちて、わたしのはち切れんばかりの時間で一杯になった。
視界はせまくもなく堅苦しくもない。ふたりと再び向き合っている。表情をたしかめる余裕なんてなかったけど、ただふたりの存在というだけで申し分なく、あとは律儀すぎて困る神経で背後に扉を感じていたの、そしてとってつけたみたいな時間の推移と凍結を。しかしもう、ためらいや痴呆的なへだたりはいらない、素直に言葉はついて出た。
「わたしあの扉のなかに入ってずっと歩き通していました。いったいどれだけの月日が経ったのですか」
即答しかけたなまずおじさんの大きな口が開きかけるのを見つめながら、思考がひかりの速さで駆け抜けていく。死の世界に時間は価値を見いだせない。答えは一致しなければいけないと願ったのね。
「一晩だよ。腹も減っただろう」
「えっ」
嗚咽になりかけそうな弱々しい音を吐きながら、空腹を問われるという予期してなかった労りに呆然となったわ。
「お腹ですか、そういえばわたし何も食べてないです」
カエルおばさんの相好がくずれるのを不吉な予感と取り違えてしまった。それほどキツネにつままれた気分だったの。
「夕飯も抜きだったのでしょう。朝ごはんも」
「ここに来てから食事した覚えがありません」
これくらい実直な返事はないって勢いできっぱりそう言った。それどころか入浴や排便、睡眠、ええ~い、すべてよ、家すら帰ってないのよ。いつものうっとうしい日々の細々した雑事や、あべこべに楽しい遊びも友達とのメールも途絶えてしまってなにも起らない。ああダメだわ、また興奮してしまった。そういうわけにはいかないってこと忘れてた。ほんの一瞬だけど。
「無理もないさ、あんたはまだ日が浅い。あれだけ事情を聞きたがっていたのに」
目がつり上がっているのが自分でよくわかった。
「じゃあ、どうして急にいなくなってしまったんですか」
なまずおじさんは半ば眠たげな目でいさめるよう、語気をやわらげてこう言ったわ。
「あんた自覚しただろ、あれこれと」
稲妻のような思念が遥かむこうの水底からやってくる。でも混乱は招かなかったわ。わりと冷静だった。次の言葉をゆっくりまばたきしながら待った。
「死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない」
どうしたことでしょうか、一緒に詩句をなぞるふうにそう声をあげてしまった。
「それが原因ですか」
自覚を読まれてしまっているおののきが一層わたしの態度を弱々しくさせたの。
「そうだとも」
なまずおじさんは自信たっぷりな面持ちで答えた。もう無言を通したかったわ。なんにも問いたくないし、聞きたくない、関わりも持ちたくない、けれどもそれだとこの身が微かに震える。
「時間がかかりそうですね」
「もちろんそういうことだ」
「地下道を歩きながら考えていました」
「なにを」
「理想と理屈と現実、それから波平さん」
「なんだい、波平さんって」
しまった、ムーミン谷と同じ轍だ。ここはお茶をにごしておこう。
「あのですね、幽霊ははかなげってことでして」
「ほう、そいつはいいとこに気づいたなあ。やっぱりものわかりのええ娘じゃ」
「そうですか」
カエルおばさんまで、、、結局わたしは適度であり都合よく出来ているんだ。そうなのですね。
が、あまり卑屈になるべきではなかったのでした。地下道は無為なる情熱でも、朽ちた詩歌でもなかった。大事なのは学習なのです。このみどろ沼とわたしという現象をしっかり学ぶことを抜きにしてことは、どこへも一歩たりと進めませんから。

青春怪談ぬま少女〜2

見知らぬふたりはもう随分とまえからわたしのことを観察し続けているような思いがした。
だって顔を見合わせるのと、わたしを見つめている時間が同じくらいで、そのうえ目の色はとても深く、くちもとは秘めごとを押し殺しているように感じられたから、まちがいないわね。こんな間合いなんて偶然に生まれるより、前もって取り決められたって考えたほうが正解だよ。
あ~あ、沼の底に沈んだのはきのうきょうの出来事じゃない、かといってそんなに古い事件でもなさそう、わたしの意識が眠っていたにせよ、閉ざされていたにせよ、こうやって他者と向き合っている実感はとっても生々しくて新鮮だったし、不安だった。
ひょっとしたら意気消沈の期間が分厚い被膜になってなにも得られかったのかも知れない。ともあれ、死んだ自分に意識が戻っているのって興奮してしまうわ。さぞかし混乱したと思われるでしょうけど、あんがい高鳴りは正常でまっすぐ胸をはっていた。よろこびも手伝っていたかもね、そりゃそうでしょう、ここがたとえあの世だったとしても、わたしは目覚めている、もっと言うなら生きているんだ、死はすでに過去形であり、わたしのまえに立ちはだかってはいない。
これは開き直りかな、気持ちの整理はゆっくりやれそうだったから、あれこれ解釈はやめにして、自覚から出発進行することにした。で、気づくとふたりのすがたは消えている。前後左右なんども首をまわしたけど、どこにも見当たらない。ひと叫びしたいところだった、ほんとう。
ところがなんとですよ、別の視界が開けていたわけ。手の届きそうな場所にごくありふれた民家の扉が待ち構えているじゃない。これには仰天したわ、どこでもドアじゃあるまいし、どうしていきなり、、、とはいってもその半開きの扉が現れたとたん、わたしうれしくなった。
「この娘はものわかりがいいですねえ」
あの声が耳の奥でこだましている。はい、わかりました。
わたしの意思が視界を生み出しているんだわ。とすれば、心持ちのあり方でみどろ沼は別世界になる可能性がでてきた。
あれこれ解釈をやっぱりするべきだ。沈思黙考、ああ時間を感じる、と同時に水圧も、冷たさも、息苦しさもやってきた。これじゃ溺れ死んでしまいそうだった。でもすでに死んでいるって念じたら体感はきれいさっぱり遠のいていったわ。もう水は空気、飲み込んだって平気、あいかわらずどんよりした水底だったけど、平野のように限りなくゆきわたっていた、なにがって、う~ん、よく言い表わせないわね、しかし早起きした朝の空が澄んでいるみたいで決して不快な気持ちになったりしない。
いいことがあるって保証は求められないだろうけど、とりあえず扉に手をかけてみた。

あれ、これは地下道ではないですか。トンネルにも見えるけどそうなると水底トンネルになるわね、が、わたしにはあくまで地下道に映ったの。水の抵抗を感じない限り、ここはすでに沼であって沼じゃない。だから陸地が呼び戻され呪縛から解放された、そう思いこみたかったのですね。その方が都合よいだろうし夢がある。
では早速、旅に出るとしましょう。申しわけなさそうにかなりの間隔で灯っているほの明るさを頼りにどんどん進んでいった。どれくらいの距離を歩いたんだろう、とにかく一直線な道だったわ、ふと腕時計をしているのを知った。
どうして今頃、、、それとも扉と一緒で急に出現したってことかしら、でも、悲鳴が伝わってひび割れを起こしたふうな時計の表面は汚れたままで、時刻をしめす針はぐにゃりと折れ曲がっている。これでは役に立たないわね、だから忘れていたのかも。
いやだわ、いやだわ、腕時計が壊れたと推定されたとき、わたしは誰かに殺された。そのまえには乱暴された。きっと抵抗したはずよ、その際の傷跡かも知れない。手首から引きちぎってしまいたい怒りを覚えたけど、どうしたわけか、そのままにして止まった時間を押し流す要領でより早足で地下道を駆けて抜けた。
薄暗いのはもちろん、単調な直線に変化は訪れなかったし、目的意識さえ希薄になってゆき、ふたたび朦朧とした視野に導かれ、浮ついた気分は意思をささえきれなくなっていたわ。それほど長い長い道のりだったのよ。一日や二日じゃなくもっともっと、一年、三年、十年、概算すら通用しないのは仕方ないの、わたし死んでいるから。
引き返そうなんて考えなかったわよ、ここまで来たんですから、地底探険よろしく果てまで行ってみたい。しかしながらこの永久的な暗がりには滅入ってしまう、出口なんかない、これが死の世界なんだ、沼の住人は引導を渡してくれただけ、やがて歩き疲れ倒れこんでしまう。
そのとき意識は消えさり、わたしは無になる。だったらもういい加減にしてほしいわ、これって儀礼なの、誰かに案内されているわけ、そこに意味なんてあるのかしら、死人を生かしておいて一体どうするっていうのよ。
怒りもあったけど、実はとっても悲しかった。うらみつらみもない、わたしを殺した奴にも激しい憎悪を感じなくなっている。願いはひとつだけ、早くこの意識を消して、ふっとろうそくの火をかき消すように。
死んだあとまでどうして苦しまなくちゃいけないの、そもそも死は無でしょうが、平安時代とか鎌倉の世にわたしの意識が存在しなかったように、ただ永遠の沈黙が約束されているはずじゃない。
これが目一杯の思考だった。そしてあとはひたすら呪文のごとく繰りかえされるばかり、いっこうに倒れもしないし、地下道は生真面目に続く。百年ほど経ったのかしら、でも時間じゃない、距離でもない、そして意識でもない、いや、こんなこと思っているんだから意識はありそうね。そのとき天井からぽたりと水滴が頬を打った。
たったひとしずくだったけど、なんという懐かしさなんだろう。わたし涙を流しそうになったわ。
けど涙よりひらめきのほうが素早かった。意識が意識らしくなったのよ。そう、こんな思いつき。
わたしは生まれかわる為に歩んでいるんだ。過去を切り捨て新たな生命となる、とね。
するとすかさず抵抗が生まれた。
過去の記憶なんてすでにない、この腕時計が唯一の残骸、それとも今から徐々によみがえりの作業が始まるってことなの。生まれかわりではなく記憶がめぐってくる、受け皿に盛られるだけ盛られる、あらゆるの記憶が。
つまりこの地下道は負の巡礼とも言える。耐え忍ぶのは死人も同じってことか。そこで別の思惑が鋭く放たれた。
過去を背負う、これって幽霊になるって意味、化けて出るのね。復讐してやるのだわ。成仏できないはずよ、まだくすぶっていたんだもの。
けど、この見解は無惨に崩れてしまった。ならそこら中が幽霊だらけじゃない、霊感を持ってるひとだけにしか見えないなんて割に合わない。犯人に霊感がなかったら話しにならないじゃない、まったく。
それからしょぼくれて足取りは勢いをそがれてしまったけど、また水滴が落ちてきた。はっとしたわ、それからぞっとした。
そうだったのか、わたしは沼のほとりに浮かびあがるのね。ぼおっと色褪せながら。見れるひとだけでも上等なんでしょう。あそこに幽霊が出るってうわさが立てば、わたしは使命を果たしたことになる。
そのうち心霊写真なんか出回って顔かたちからいよいよ身元が確認され、遺体の捜索が始まる。わたし行方不明者のままかも知れないから、これで家族にもさよならが出来るのね。いいわ、やってやろうじゃないですか、幽霊になってやる。そして夜な夜な登場して世間をあっといわせるの。
ほとんど有頂天だったわ、死者がこんなにはしゃいでいいものやら。ああ、でもよかった、きちんと感情が息づいている。ようやく目的が見つかったのよ。
ところで、どうしたら幽霊になれるのかしら、、、あっ、答えはこれだ。この地下道を抜ければいいのです。そうでしょう、神様。ここまで悟ったんですからね、そろそろ出口に近づけて下さいよ。