美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜11

封筒をビリビリじゃなくそれはそれはありがたくね、といっても実際は震えつつ開封しました。
読んで話すほどのことでもないんだけど、、、明日から登校するよう、遅刻は厳禁、きちんと制服を着用する、あれこれ質問しないなどという事務的かつ高圧的な文面でした。
あとご丁寧に学校までの道のりの大雑把な地図が、ちゃんと赤ペンで記してありました。これは少しばかりほっとしましたね。
強制労働者にとって瑣細な指示がときにはうれしさ覚えたりすることあるように。
所詮こきつかわれるのだが自分の身を案じてくれている、なんてね、本当は卑屈な気持ちが過剰に反応しただけに過ぎないだけかも、しかし胸のうちがわずかでも温もればそれはそれでいいのよ。目くじら立てる必要はない。
弱い立場だからこそ、自己欺瞞だって有効に活用しないとね。
電話機のあり方にもある程度了解したわ。ここは自由な世界とは違う。死んで化けて意識が灯っている。わたし死んだら無になるって思ってたから、その無をまた想像したりしてね、たしかこれはまえにも話したかな。
ところがですよ、ゲゲゲの鬼太郎のうたではこんな調子じゃないですか。
おばけにゃ学校も試験もない、会社も仕事もなんにもない、ただ運動会はあるみたいだけど、、、死なないのはわかる、だが病気はどうなんだろう、もしかしてこころの病い、なんかやらかして10年学級に転入させられたのかしら、規則を犯したからなのか、落第に次ぐ落第の結果だろうかと、もう考えだしたらきりがないのでやめておきます。

行きますとも、はい沼高校11年生ですしね。もう行くしかないです。ところで気にかかったのが厳しそうな先生が言ったあの言葉。
「昨夜、ユメを見なかった」
という叱責だった。どうして初めての夜に、、、あっ、違う、わたしは11年生なんだから当然まえにもどこかで寝起きしていた。こんな荒涼とした地の一軒家かも知れないし、あるいは他の生徒たちと寮に入っていたかも。
ユメ、ゆめ、夢、、、こころがけがいけない、これはどういう意味合いなんだろう。
洗顔だけじゃなく熱めのシャワーを浴び、さっぱりする身を愛でながら汚れが流れおちてもそれは肌の表面だけを洗っているだけみたいで、どうもしっくりこなかった。意味じゃない、けど問題には違いない、いけずな先生がああいうふうに念を押すところを察するれば、けっこう大事な規律かもね。宿題やクラブ活動よりも。
冴えないあたまをひねらせていたせいでシャワーから発する湯気がもうもうと立ちこめて、増々見通しが悪くなった。バスタオルで全身から吹き出た汗を拭いながら、小窓を開けたそのとき、さわやかな空気と一緒になってあるイメージが霞のなかから現れた。
鮮明じゃなかったけどあと少しで手の届きそうなもどかしさ、使い慣れた単語を忘れてしまったような浅いくやみ、けれど深みに沈みこんで容易く引き上げられない、そんな名状しがたいイメージ。
焦るな、そう自分に言い聞かせてとりあえず新しい下着を身につけ、人影のない外の景色に目を泳がせる。どのみち明日になればおおよその疑念は晴れるでしょうが、これからまる一日時間に苛まれてしまいそうで不快な気分をはらえない。それでも広々とした大地に目配せする。
焦りは逃げていかない、代わりに災いを流し終えた湯気が大気に解き放たれてゆく。ゆっくりゆっくり、わたしの心持ちなんかとは無関係にどこまでも。
無関係、、、言葉にしたつもりではなかった、なのに軽い強迫観念めいた様相で脳裡に刻印された。
きっと誰かに教わったんだわ。学生だもの当たり前よね、授業で習ったのか、実習だったかも、とにかく答えは学校に行けば分かる。けど何かが異なっている、遠い記憶よ、しかも数日まえに見た夢の情景に似てあやふやだ。夢のまた夢なんだろうか。その眺めだったのかなあ、と思うほうがしっくりくる。
自分でも性格がしつこいのやら淡白なのやらつかみきれない。いえ性格もあるだろうけど問題はかかわり方よ、今こうしてわたしのあたまのなかに居座っているものが問題なの、性格なんて濃度を計る機械の目盛りでしかない、だから杓子定規でしかない。

わたしにも好きなひとっていたんだろうか。毎日毎日思いつめるくらいの相手が、、、よく似てるわ、この情況に、きっとこころときめいていたと思う。華やいでもいたし絶対うかれてた。そんなこと考えてたらなんか切なくなってきた。もういい思考停止だ、記憶だって全部とはいかないけれど、細切れでもいいからいつかきっとよみがえってくるわ。
「あれこれ質問しない」なんて注意書きがしてあったのもそれとなく理解できる。
というわけで、想像してたより煩わしい通達ではなかったので、今日一日どうやって過ごそうなんて急に明るい笑顔に移ろったのでした。
では朝ごはんにしますか。好きなものを食べるとしましょう。わたし能天気ではありませんよ、ただの食いしん坊なんです。
でも昼ごはんも夕ごはんも待っている、あんまり食べ過ぎるのも善し悪しね。ちゃんとモーニング風でいきますか。
どれどれわたしは幽霊である身を忘れ、ひたすら食材を物色し、さほど空腹を覚えてないにもかかわらず、素早く献立を組み立て、我ながら呆れるほどの手際でお日さまに感謝しながら食事をしたのでした。
たいしたものじゃありません。といったらヤモリさんに失礼ですね、おわかりでしょう、野菜スープの残りを温め、あとはハムエッグ、トーストにブルーベリージャムをたっぷり、オレンジジュースに豆乳、ちょっとだけ罰の悪そうな顔つきでバニラアイスクリーム、以上でございます。
あとはソファで優雅に寝そべり、音楽をと望んでみても残念ながらテレビもラジオもステレオも見当たらないから、下手くそな口笛なんか吹いたりして無聊をなぐさめる、なんてね、世捨て人の境地をさまよいながら、まねごと程度にストレッチをして、カッカしてきたところで家中を探険、ところが引き出しのなかは空っぽ、クローゼットもくまなく覗きこみ失望を得てから、思いきって玄関を飛び出しくるりとひとまわり。ああ、ため息ひとつ。
どうせ暇なんだからと洗面所に引き返して、歯ブラシ、歯磨き粉だのタオルにバスマット、新しい下着が置かれていた棚を再確認、黒い制服とは正反対に純白の品々をいくつか手にし、微笑んでから不意に涙ぐんでしまいました。
いいえ悲しいからじゃないの、なんかうれしくてね。だって明日はおそらく色んなひとに出会える。もちろん素敵な出会いばかりとは限らないでしょう。恐ろしい罠が待ち構えており、どんな仕掛けにはまってしまうのか、それなりに胸が引き裂かれそうでした。

青春怪談ぬま少女〜10

世界の豹変に目を見張り、感動にひたっているのは素晴らしいことだけど、お腹がへっていてはままなりません。うっかり忘れていました。昂った気分にも限界はある。こう言うと身も蓋もないですが、裏返せば限りある感動にふたたび出会うには日常の連鎖を排斥するわけにはいかないってことでしょう。そこで、食欲、性欲、安眠欲を重視しなくてはいけません。
性欲は今のところまだ迷妄の域から脱してないと思うのでひとまず脇にずらしてですね、なにより食欲を充たしましょうか。はい、これは大仰な考えではありません、ひたすらわたしに密着した定めなの。
空腹だと安眠のさまたげになりそうだから早速、冷蔵庫とその周辺を探ってみた。納戸にクローゼットも気がかりだったけどね、それは腹ごしらえのあとでもかまわないでしょう。
ヤモリさんが残していったあの、
「今日の分だけは用意させてもらいました」
って生唾が出そうな甘い言葉に操られるようコンロのうえのなべに目は釘付け、赤いなべって想像力を育みますものね。
ええ確かにある種の限定を醸す色合いでもあるんですが、お腹ペコペコのときって希求力をともなって大きな期待が生まれてしまうでしょう。白色、銀色だって文句はないんだけど、飼い犬にたとえるなら待てを言い渡されているみたいでどこかしら歯がゆい。
そこで思いもよらぬ芸当があみ出されたわけ。右手で赤いなべのふた、左手は冷蔵庫の中身をという飢餓情況を大胆に演ずるふうな仕草に苦笑しながら恍惚を覚えるとですね、待つことを知らない欲望は全開し、瞬時にしてお腹におさめるべき食事が決定されたわ。

なべの中身は野菜スープだった。
じゃがいもにブロッコリー、にんじん、トマト、ざっと眺めただけで了解。冷めているようなので温め直す。冷蔵庫の内側は言葉で追うことが厄介なくらいでした。
ありますとも、詰まってますとも、ひんやりと冷気は冷気らしく頬を優しく差して反面、調理の手間を厳かに物語り、それは野菜や肉類に限らず、マヨネーズやケチャップにバター、味噌といった脇役にまで及んでいる。
あたかも薫陶を受けた生徒の趣きだったから敬遠に傾いたのは語るべきもないわね、不良学生のままでいいから素早くがっつりした食べものをかみしめたい。野菜スープに物足りなさを覚えたお腹具合わかってもらえるかなあ。
続いて戸棚をあさると米に食パン、乾麺らが鎮座しておりました。そしてカップラーメン各種が並んだ壮観に上質なめまいが生じた途端、わたしはやにわに金ちゃんヌードルをつかみとっていた。UFO焼きそばとかカレーヌードルにも食指が動きかけたけど、欲望の閃きは殺気さえ帯びており、もし野菜スープがなければあとひとつ食していたと確信する。
炊きたてごはんの支度が予想されるはずだったので、わたしの困惑はかなり見苦しかったでしょうね。
食パン焼かずにかじってもよかったんだけど、べつだん喉が渇いていたんじゃなかったから、なんか口中の水分が吸い取られそうな怖れに振られてしまい、目ざとく見つけたハムをはさんでサンドイッチをこしらえる意欲は失せていた。
むろんカップ麺だってお湯を湧かさないといけないし、その時間を埋め合わせるのはすでに用意されていた野菜スープが並行するからであって、苦行を強いられている重荷はなかった。女子高生らしくサンドイッチを頬張っていればいいものをハムに魅入られたのが運の尽き、好物なのね、家のなかの食材の味覚全部を忘れようにも忘れられない。食の記憶って凄いわ、なんて称賛している間にハムのパックを荒々しく破り、マヨネーズとカレーパウダーをかけてかぶりついてしまった。がっついているわりには一枚一枚しみじみ味わっていたのよ。ちょうど食べ尽くすころ金ちゃんヌードルにありつける心算でね。

この先の無粋な食べっぷりはお話しません。
炭水化物より先に野菜をというふうな意見を何となく覚えているんで、気恥ずかしいわね、あとは想像におまかせしよう。ただ野菜スープが想像してたよりか遥かに豊潤でそれもそのはず、かなり分厚いベーコンのすがたを見知ったとき、感激にむせてしまったとだけ言っておきます。
人心地つきました。しかしながらまだ戸棚の隅っこや食材の点検に意欲を傾けるのはどうしたものでしょう。冷凍庫からいちごミルク味のアイスを引っ張りだしくわえたまま、調味料あれこれとか、インスタント類の確認とか、ああこれも飛ばしますね。
そこで飛んださきはやっぱり眠気だった。旅人が宿の一夜に日頃からの郷愁をどっさり持ち込むように、そしてまどろみと安寧がふんわり枕元に被さるように、わたしのまぶたは緩やかな風のはからいでひかりを閉め出そうと求めている。
同時にあたまにかかった霞はあべこべに鮮やかな彩りを点在させながら、不思議といけないものを見つめている感じにとらわれ、ふと台所の片付けなんかよぎらせしつつ、赤いなべが宙に浮いた幻影に乗り込んで、ますます明滅する景象をつかみとれずにいた。
おそらく意識の反面では入浴は省くとしてもシャワーでさっぱりして寝床に入ったらどう、なんてささやいているのね。まったく、、、旅の宿にだって温泉はつきものよ、これからここはわたしの家なんだから、べつにかまわないんだけど、とにかくはじめての我が家ですしね、けじめというか汚れをきれいにしたいって気持ちは拭いきれななかったのでしょう。
でも眠い眠い、節度ある意識は日々の結びつきを前もって算段している様相で、間延びした顔を認めようとしているのかしら。
「まっ、とりあえず横になってですね、どうせならソファよりベットで、仮眠よ仮眠、さっと寝入ってからお風呂に入ろう」
なんてね、こんな譲り合いが案外はっきりしたかたちでかすめていったわ。
そうと決まれば睡魔に引き込まれる姿勢はほとんど酔客の足取りで、さらに窓のほうを見遣るまでもなく、さっきまでカーテンを染めていた朱は隠れ、どうやら宵闇が外を包囲している。これで大義名分がたちました。おやすみムーミン谷、じゃなかったみどろ沼。
もう沼ではないけど、そうこころのなかでつぶやけたのはこの家のちからでしょうね。わたしは見事どろ沼みたいに寝込んでしまいました。夢なしです。
だからなの、目覚めの悪さがかなりよくなかったのね。激しい自己嫌悪に苛まれ、おまけにからだの節々まで異様にけだるい。頭痛こそなかったけど鈍い気分に全身呪われている感じがして、思わず納戸に身をひそめようと思った。
寝つくまでの茫洋とした幸福感は一転、学校からの通知や監視といったとらわれの意識が毒花のように開花した。結局は仮眠ではすまず熟睡した様子だったわ。カーテンに裏漉しされた朝陽は鋭く、なにやら急いている。
壁掛け時計だってこんな分かりやすいところで時刻をしめしている。えっ、9時15分、これってもしかして寝坊、学校ってもっと早起きしないといけなかったのでは、、、

そのときだったわ、玄関口でジリジリって音が鳴り響いたもんだから、とっさに電話のベルかなって案じたんだけど、見回しても電話機はなく、音も外から伝わってくる。重たいからだを引きずって外に出れば、郵便受けにそのすがたありだったのね。来ましたよ、早速、学校からの案内書、寝坊したから起こしに来たのならその配達人はどうして声をかけなかったんだろうか。
待てよ、通知が届いたからといって今日から登校しなければいけなってわけでもないわね、どうもわたしはものごとを都合よく考える傾向があるみたい。昨日はあんなに感激した太陽に挨拶するのも忘れ、すぐそばの郵便受けに手をのばす。
ウキウキではなく、しかしトボトボでもない、しかるべきことをやり遂げる、実際は渋々なんだろうけど、相変わらず人気のない景色を横目に封筒を取り出した。
志呉由玲様、間違いなくわたし宛てだ。住所は数字が並んでるけど、たぶん登録証のそれと同じだと思う。
またしてもジリジリ、えっ、左右にかぶりを振ってみたが誰の影も通らない。うろたえました。だってその響きは家のなかから聞こえてくるのです。いい加減にしてよ、もう、携帯電話を見落としたってことね。怒り心頭まではいかなかったけど、何故かといえば不安のほうが勝っていたし、探偵ごっこじみた持ってまわったやり口に圧倒されていたからでしょう。
そして重いからだでわざと床を踏みならしながら部屋に入ると、電話のベルらしき物音はなんとクローゼットの内側から鳴っている。そうね、まだここを確かめてはいなかった。怖いもの見たさなんかじゃない、こうなったら真犯人をあばく心意気がわきあがってきたわ。
さっと扉を開くと変哲もないただの受話器がまるで蝉のものまねをしているふうに鳴り響いている。それと黒い制服に黒いかばん、それらにべつだん驚くことなく声の主に迫った。
「もしもし」
「志呉さん朝寝坊なの、もう一回10年学級に戻りますか、すぐに顔を洗って通知をごらんなさい。それとあなた、昨夜ユメを見なかったでしょう。いけませんね、そういう心がけですと、わかりましたね」
かなり厳めしい女の先生だ。だがその容貌は浮かんでこない。
「わかりました。顔洗います。ちゃんとやります」
あわててそれだけ言うと、
「では」
受話器の向こうから気配が消えた。
黒づくめの身支度品にやはり見とれていたのでしょう。だってこの電話機はありふれたものなんかじゃない、ボタンもダイヤルもない、同じく真っ黒だから見逃したの、、、こっちからは連絡できなってシステムなのね、そう思えば合点がいく。
では仰せのとおり顔を洗ってきますか。わたしは封筒を握りしめてはいなかった。むしろ非常に有用な書類を授けられたに等しい丁重さをこめ、手のひらにはさんでいました。

青春怪談ぬま少女〜9

コンパスの矢は精確な位置をしめしている。
目的地をさとす使命を担ってるわりには、小さな手のひらにおさまってしまう頼り気のない丸みと軽さだった。けどその軽さがわたしの足付きをハラハラさせ、緊張にはばまれながらも優美で不遜な意識へと先走りさせてくれたのでしょう。
未知なる世界への跳躍、振り返るまでもないありありとした現実、しかし現実と呼んでいいものやらとまどいは隠しきれない。恐る恐るの気持ちは急上昇する気流へ乗りこむしかなかったわ。眼下にひろがる地平に冷ややかなまなざしを投げかけながら。
わたしは水底を歩いている。閑散とした見晴らしです。似たような水草がまばらに目につくだけで、壊れた腕時計が放棄した通りのほの明るさに支配されていた。止まった時刻こそわたしの死、しかしながら幽霊意識の目覚めは夜の漆黒だけに塗りつぶされてはいない。疑ってみたくなるものですね。待望の民家がぼんやりと現れたというのに、焦点を結ぼうと努める意欲自体を。
察してください、喜びは素直さにぎこちなく接してしまうのです。でも瞬く間だった。わたしの家はこじんまりとした方斜面の平坦な屋根をもつ昭和モダン風な造りでした。努めた意欲が空回りした甲斐はあったと思う。被われない意識は瞬時にして我が家を愛でていたのですね。面倒でもこんな摩擦が確固とした目線として成り立っていく。
浮き足だっていたのでしょうか、でも足取りはいくぶん慎重だったような気がします。期待していたプレゼントをひも解く気分に似てね。だって破顔は絶対しまりない下がりでしかなく思われたし、誰彼にというわけでもなかったけど、愉しみをゴムひもみたいに緩ませている感覚を理解して欲しい。これって屁理屈じゃないわよ。

定まりきらないまま門前まで歩み寄ったとき、はじめて気後れしたの。不快な気後れなんかじゃなかった、決意を抱きしめたと同時にこぼれ落ちるためらい。愁いの再確認かしら。

ともあれ、新築の家を訪問する背筋の張り方は間違っていなかったでしょうし、こころのなかよりもからだの汚れを感じとってしまった。
「なかには誰もいないよね」
懸念とも心積もりともはかれない手つきでドアを開いたの、ええ、もちろんゆっくりと、あたかも潜水艦のハッチを押し開けられる慎重さを想像しながら。
まったく予想外だったわ、と口にしたならいくらかの欺瞞がまじっていたでしょう。コンパスはわたしの内奥まで探り当てていた。
「どうもはじめまして。わたくし家守りのヤモリタマミと申します。臨時の家政婦みたいな者です」

どう見たってわたしより年長の、だけどどことなく幼げな笑顔が初々しい女性がドアの向こうでたたずんでいる。一歩退きかけたのは本当よ、それくらいの反応は許されてしかるべきだと役者根性みたいな振る舞いで応じたの。うっすらした打算も兼ねていたわ、その方が質問の煩わしさを回避できる、つまりですね、相手から名のったのだから、それなりの事情を落ち着き聞きいれたかった。
「部屋の掃除と設備の点検、それに食料も補充しておきました。すぐお風呂へ入れますし、ベッドにも横になれます。食事は今日の分だけは用意させてもらいましたので」
直感は的中ね。なかなか調子の良い滑り出しではないですか。すっかり安堵を覚えてしまったわたしはことさらにヤモリタマミさんの容貌をしげしげ眺めることなく、こう言ったわ。
「ありがとうございます。助かりました。では早速部屋を案内して下さい」と。
如才のない返事を受けとめながら、今までの曖昧で不透明で、よりどころのない、しわくちゃなシーツがパリッと張られたような清々しさを感じ、あまつさえ純白の密度が濃さを増して、大方の不安は消し飛んでしまった。とりあえずだけど。
こうなったら本来自らあちこち足を踏み入れるべき問題はゆるやかに据え置き、家守りのこのひとを土台にして有意義な時間と共存していこう、なんて出世頭か独裁者みたいな勝手な不惑が羽ばたきだしたわ。
感謝の念をあたりまえとしてくみ取っている自分にやましさを少しは感じていたけど、置かれた情況と行く末を照らし合わせてみれば、囚人のわがままが容認されていると思えていたの。独裁者のそれを横取りしたように。
それなりに心地よさそうな居間、なるほどと感心してしまったしんみりした寝室、窮屈なのか相応なのかよく分からない勉強部屋、そして機能的で素朴な風呂場とトイレ、まだあった、くらがりを欲してやまない納戸と寂しさを見せつけるにもってこいの小さなベランダ、ヤモリさんの実直で的確な案内を受けながら、その実ぼんやりとしていた。
そして気づいたときにはすでに遅く、肝心の事情をあたえてもらっていない不始末にいたったというわけ。家守り人はさっさと所用を片付けた手際よさを誇るでもなし、きわめて良質な事務的態度でわたしのもとから立ち去ろうとしていたわ。嫌みなんか微塵もないだけに問いかけの言葉がつかえて出てこない。
「それではわたくしこれで。学校の方から近いうちに通達がありますからその旨にしたがって下さい」
くるりと反転する勢いでないにしろ、もう背を向けたに等しかった。その所作にすがる気持ちは部屋中の窓をすべて開けたことも手伝って、さわやかな風に取り巻かれ、なおのこと詰問めいた口ぶりは抑制されたのよ。
「ではお元気で」
「どうも」
腑抜けた声色に我ながら唖然としてしまいました。
取り急いだつもりじゃなかったのに、ことはうまく運ばないものね。結局なにも聞き出せず仕舞い。やはりどうこうあれ慢心はいけません。決意の浅さを知らされたというか、べつに必死の形相でもなかったから、まあいいかって開き直ってしまいました。またまたへたり込んだ、いえいえ、居間にあるべくして据え置かれたソファに深々と腰をおろしていた。
やっぱりひとりだ。いやいつもひとりだよ。けど何者かの眼はどこかで光っている。この定理にまとわれている限り、わたしは奮い立つことができそうです。そして驚愕すべき事実を発見しました。錯覚だろうが、たぶらかしだろうが関係ありません。しっかり感知した現象ですから。

風とともに陽光が窓から射しています。お日様ですね。水底の感覚は霧散し、沼の景観でもありません。ここは地上と寸分も変わらない大地だったのです。奇跡なの、確かに動揺しながら窓辺へ寄り、深呼吸してみると奇跡らしさが実感された。仕掛けも驚きのうちですから。
ただ、わたしは沼底の世界から見渡せば見渡すほどに牧歌的な土地に立つ家に住み着いたという恩恵をさずかった、天地が逆さまになろうがこの歓びは否定できません。あっ、早くも逆さまになってますが。
さてと、次は沼高校とやらからの通知を待つ。これだけ世界が大変貌を遂げたにもかかわらず沼ってところが引っかかるけど、ふと唱歌の一節が呼び起こされ、思わず口ずさんでしまいました。
「手のひらを太陽に透かしてみれば、、、」
さらなる展望を夢みましょう。

青春怪談ぬま少女〜8

悦ばしき知識ですね。ミミズくん、きみのお陰だよ。
「付随するもの」
そうか、あれはすでに認識されたことだったんだ。ときおりよぎるランダムな語句を見捨ててはいけません。わたし自身見捨てられずにすみましたから。
ともあれ、なかなか立派な革張りの二つ折りの登録証を取り出しつぶさに調べてみますと、緑色の若々しく生き生きとした苔の色合いでした。
これはなるほど沼によく似合います。ただ読み上げるのが面倒なくらいの数字がびっしり記載されているばかり、あっ、これは見開きの方ですね。手帳ふうの裏表に記号すら見当たりません。顔写真は張りつけてられてない。
名前はと、ありましたよ一番下に、、、えっ、志呉由玲、シゴユレイ、、、これは源氏名でしょうか。ふざけた姓名じゃないですか、わたしひょっとしてお馬鹿な芸能活動とか行なっていたのかしら。それに縁起もよくないわ。そのうちはっと思いつきました。幽霊にふさわしい新たな名前をつけられたんだって。おそらく生前は異なっていたでしょう。どうあがいてみたところで沼の支配人の無粋なはからいを軽く笑い飛ばすくらいしか能はありませんでした。
それからもう一行、沼校生11年(葉魔高校2年没)
絶句、、、永遠の女子高生っていうのは静謐な気品に守護されており、香しい雰囲気を生み出していて、若さゆえの失態は現世に取り残され、ここでは美意識と協調した仕草が瑞々しくよみがえるばかりで、かつて放たれていた青臭いだけの色香と桃色的な態度は昇華されていると夢想していました。見るからに天使と呼ばせるだけの威厳さえ身にまとってね。
それがなによ、沼校生11年、まるでどぶの匂いとまじりあって漂ってきそうなうらぶれた中年女の酒くさい吐息の化身じゃない。醜い妖怪だわ、ひどいひどいわ、まったく。
あのね、沼も11年という歳月もすでに了解済みだからかまわないの、それより高校を11年っていうのが耐えられない、じゃあ来年は12年生なわけ、永遠だから卒業できませんよね。わあっ、50年生とか100年生なんて考えただけでめまいがする。
絶対に妖怪です。美しい幽霊じゃない。待てよ、容姿は変わらないんでした。わああ、でも嫌よ、中身はおばちゃん、絶対おばあちゃんになってる。

お家へたどり着くまえにこの騒ぎでしたから気楽なものかも知れません。とりあえず永遠の女子校生の外面だけをよりどころとし、内面の鈍化、神経の図太さ等の荒廃は心がけ次第、精進あるのみだと強く言い聞かせることで手打ちにしました。
登録証が傷んでしまいそうなくらい握りしめていたのは、もう肩書きではなく来るべきお迎えを待ちわびているじれったさによる力みだったみたい。
目覚めの意識とともに話し声が聞こえたなんて出来すぎでしょう。わたしは常に見守られている。悪く言えば監視されているって意味だけど、ひとりぼっちに比べれば断然ましに決まっている。どうやら敵意とか殺意はなさそうですし、殺意とか人には通じないから怖いものは孤独に尽きるわ。
ところで目覚めに立ち会ってくれたひとがよく思い出せません。とても親切にされたような気はするんだけど、顔かたちが浮かんでこないのです。門番だったのはまちがいなさそうで最初に出会ったというふうな印象はある。それより先の細やかないきさつは忘れてしまった夢と同じでまったくつかみとれない。しかし門番が存在したのなら、今度はこの登録証を検分にしに誰かがわたしのもとへやってくると思うの。とにかくあまり焦らずこころして待つべきね。

「お腹へったなあ」
温かいスープの湯気と香ばしい匂いはすぐそこにあった。
内ポケットから大事なものが出てきたようにと、他のポッケも探ってみたんだけど、胸にボールペンが一本はさまっていただけであとは空っぽでした。
ああ、つまらない、グリコアーモンドチョコレート食べたいなあ。体温でかなり溶け出したやつ、えっ、なんでそんなこと、、、が、すぐに途切れた。まるで針先にかかった魚がみぎわで外れてしまうように。
とは言っても魚なんか泳いでないよ、ああ、イカの刺身に大葉のせたの食べたい、アジも美味しいよね、味がいいからアジっていうんだとさ。ほっけの開きを始めて食べたとき感動したわ。
これらの記憶は一体どこから湧いてくるんだろう、海が連想されるから、単にお腹がすいているからなの。それにわたし感じている、ここは沼なんかじゃない、幽霊だから水を感じないのかも知れないけど。
だとしてやはりおかしい、具体的にどこがどうのってほじくってもすぐに行き詰まってしまうので、よく言い表わせないけど、怪訝な雰囲気が立ちこめているわ。
待ち人は待てど暮らせど影すらちらつかせはしなかった。空腹は段々と募りだした不安に圧迫され、ついに大声を張り上げてしまったの。

「誰かいるんでしょう、だったら出て早くきてよ!永遠の女子高生は気が短いの」

水底の静けさをこれほど不気味に感じた試しはない。
ところどころにやる気をなくしたふうな水草がゆらめいている。見ようによっては猫の持つ戯れめいた動きにも映り、ほんのちいさな気泡が見逃して欲しそうな様子で浮上しては消えてしまう。久遠の光景、わたしのどこかに同調している。
そのときだったわ。あまりにゆったりした代わり映えしないさなかに見いだした。そう気泡よ、注視すればわたしを取り囲む具合で、もっと正しく言えば、時計まわりの要領で気泡が逃げ去っているよううかがえる。もとの目線を定置とし、ぐるりと首をまわしながら水草を追いかけたわ。何度か試みて定置に生える水草の位置を秒針の12時にたとえた。ゆっくりかぶりを動かしていくとそのすぐ横から断続的に大きな、といっても豆粒くらいだけど、ぼこぼこって音が微妙に伝わりそうな気泡が発生している。
「11時」
ピンときたの。11年よ、すぐに歩み寄ると、砂底にカレイがまぎれるような煙めいた異変が認められた。何かが動いている。が、動物的な本能を発揮することなく、その場所から遠のこうとはしない。こうなったら手づかみしてやる。
驚いたわ、右手できつく握ったときの感触はまず、そしてそれが矢印一方向しか与えられてないコンパスであったことに目を見張った。勘なんて冴えるよりか先んじてあるべきものにたどり着くだけよ、なんて豪語したいくらだった。
コンパスが案内役だったわけ。ほら、スイスイよ、わたしの歩調を読み取るかのごとく矢印はクルクルと生き物みたいに知恵者を演じてくれるわ。もはやどれだけ歩かされようとも苦にならない、ならないどころか、ウキウキ気分の足取りよ。
そうね、お腹がまたグーって鳴りだしたけど一抹の憂慮は拭えきれなかったわ。随分まわりくどいうえ、とことん無人でアプローチしてくる、っていう不穏な謎めきに。
かなりの時間が過ぎたと思う。
ええ腕時計はあの時刻をさしたままだったし、例にによってあれこれ意識のざわめきと感情の色彩が道のりをほどよく狂わせた。それでよかったのよ、確信はあった。無為だとしてもかまわない。そもそも無為と仮定する性根のほうが弱音だわ。
門番にコンパス、自分の家、どこから見ても納得のいく冒険よ。とはいえそろそろ到着してもいいんじゃないの、試練ならもう十分、悪ふざけならここらでお開き、道行きでの悶々とした気持ちは端折らせてもらいますね。
ではいよいよ記念すべき日のことを語りましょう。お待ちかねの様子でした、はい、見知らぬ住人がです。

青春怪談ぬま少女〜7

「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生さ。だからよくお聞きなさい。もう会うことはないのだから。あんたが家へ向って歩き出し、途中で忘れものをした素振りでここに戻ろうともそれはあり得ないと言えば、どうかな。奇妙に聞こえるだろうか」
なまずおじさんの話し方に刺を感じるのは否定できなかった。
奇妙という絡まりとは別に、どこかしら不穏な秘密が薄笑いを浮かべているようで、気色が悪いよりか、突き放されている弱みが影法師になってじっと佇んでいる思いがし、こわばってしまったの。
それは当然の成りゆきなんだろうけど、覚醒なのか生まれ変わりなのか、うまくいけば結構ありがたい思惑が肩すかしをくったのだから、わたしの怯えが引き起こした、そうつまり期待はずれってことになるわね。この期におよんで今さらって非難されても仕方ないわ、目覚めからあるいは誕生からさほど年月は経っていない。
むろん扉のなかの時間は差し引いてよ。朦朧とした意識なんてときに即すべきじゃない。いかにも現実主義者の意見で呆れてるかな、でもそうなんだからどうしようもない。で、現実の話しに立ち返った。

「ええ、よく分かりませんが、すべて自意識が織りなしているふうな怖れを感じています。そしてまったく反対とも」
わたしの口調は決然としていない。が、すでに質問に切り込み、指先程度にすぎないけど思いあたる節があった。無駄口はひかえよう。
「多くは語るまい。あんたの聞きたいことはそれほど込み入っておらんしな。わしらふたりはいわば門番なんじゃ。そう沼の門番、あんた専属の、、、だから見送ったらそれで務めはおしまいになる。
見聞きした事ごとは記憶されるだろう、しかしわしらの存在は急激に薄れ、やがてあんたのあたまの中から消えてなくなるよ。ちょうど、ひらがなカタカナを習ったときの光景を大半の者が忘れ去ってしまっているようにな。
極まれに当時の先生の容姿や教室に差し入る陽光の加減なんぞ覚えていても、写真や映像を持ち込まなくてはかなりあやふやだ。いや、あやふやがいけないんじゃなく、そういう宿命だってことさ。
どうしてわしらを消し去らなければならないかと言えば、ほれこのなまずとカエルの顔に障りがあるってことだ。なら普通の人間の面差しを装っていれば問題なかったろうと考えるかもな、もっともだよ。とにかくここは沼だ、そしてあんたは誰かに殺され沈んだ、魔界らしさを最優先しない限り覚醒どころか狂乱してしまいそのまま廃人か、眠りかのどちらかしかなかったろうよ。
見世物小屋めいた幽霊屋敷にこそ意義がある。そこでは恐怖を買うわけだからな。非常に前向きじゃないか、すすんで負の世界に分け入ろうとする。
さあ、これから先はあんた自身で探りなさい。重み自体にうんざりはしておらんだろ、生きていたときだってそれなりに背負うものはあったはずじゃ。しかし比較なぞしてはいけないよ、大人は大人の子供には子供の領分がある。
分別やら打算やら理想やら、ついてまわる意識とのせめぎ合いはそれぞれの器にあんがい見合っておるもんだ。みどろ沼はたしかにうかがい知れぬ領域といえよう、門番を配してあるくらいだから。あんたの予期した通りだよ。めぐりあいについては確率もあるだろうが、ようはあんたの奮起しだいだと言っておく。もう理解できているね、どんなに入り組んだ世界でも、見通しの利かない空間でも、所詮はあんたのあたまがキャッチするしかないんだ。意識は現象であり、現象もまた意識じゃ。少なくともあんたひとりだけなんて空想するほうが難しい」

最後の言葉だけ語気を強めたのは別れの悲しみに執着してしまいそうなわたしを見抜いていたからに違いない。
かなり緊張を強いられる場面だったにもかかわらず、素直に首を下げた自分がいて、つまりもうひとりのわたしが沈着なまなざしで見守っているふうな感覚に被われていた。不意にこんな言葉がよぎった。
「付随するもの」
今は深く掘り下げようとはしないつもり、だって付いてくるんでしょ、待ってるわよ。急いてはいけません。とはいえ、この現状どこか急いてますね。番人から見送られ、わたしは家へと旅立つ。まさか縮図ではないでしょう、幽霊の世界が見世物小屋だしたら、それはありえそうだけど。
こうしてわたしは二度と会うことのないなまずとカエルの両人の顔をしみじみと見つめ、こらえきれない涙をためきれず、お礼の言葉は鼻水まじりで、それでも深々と垂れたあたまに去来するのは悲哀ばかりで雑念は退けられ、真面目に笑顔なんかつくってみた。
ふたりの表情はまるでよく磨かれた鏡みたいな光沢があったわ。映りこむものはかなり美化されていたでしょうけど。
もう聞きたいことはないと言えば嘘になるけども、消えゆくふたりに対しおんぶに抱っこはあり得ない。あきらめを際立たせるのは新たな目標を打ち立てた瞬間よ。
「いずれとは思っていたけどわたしを殺した犯人を探し出す。そのためには幽霊だって魔物にだってなりきろう、廃人は遠慮しとく」
胸のなかにそんな誓いを轟かせていた矢先、ごまかしのない瞬間が早くもやってきた。
向き合ったふたりの相好が薄れている。なまずおじさんのきつく結んだ厚い口許がかすんでゆく、カエルおばさんの下がりきった目尻からこぼれているしずくが消えてゆく、ああ、声にならない焦りは本物、だが手だてなんかあるわけないし、これが運命と告げられたばかりだ。
「ちょっと待ってお願い、、、」
それが精一杯のどから絞りだした台詞だったわ。
遅い、もう遅い、現象をなぞるアナウンサーの気持ちが少しだけ思い描けた。悲痛な叫びなんかじゃない、本当に悲惨で痛ましいときこそ、あきらめが霧雨のように降り注いでくる。はなからそう仕立てられている調子でわたしは次第に声を失い、涙を涸らした。
やがてこんなふうにも解釈された。もしまったくの説明もなくふたりに消えられたら、それこそ狂騒を演じ、自堕落な感情に圧しられていたに違いない。ふたりはとても真摯に門番としての役割を果たしてくれたからこそ、自分は流れる感情とともにいることができた。時間という途方もないエネルギーを供給され、まずまずの惜別に向き合えたの。
泣いた子供がすぐ笑う、なんてね、まさか、しばらく影すら見いだせないその場にへたり込んでいたわ。こんなときは都合よく流れを意識しなくなる。夕陽なんか照りつけてくれれば雰囲気もいいし、気分も洗われるのにね。残念ながら沼は明るみをわずかだけ保ったままで乳白色によどんでいた。

「さてと、お家に行こうか」
戦慄が走る瞬間って若干の猶予が残されている。
なんでこんな細かいこと言い出すのかって、それはね、足なり腕なり骨ばった箇所を硬いところへぶつけるでしょ、わかりますよね、すぐに痛みは直撃しません、一秒くらいかな、そのあとやってくるのです。たまりません。
「誰か助けて」
そう一声あげるくらいの猶予があったということ。うかつだったわ、現象学の基礎みたいな問いかけなんかより、そんな高邁な抽象論より、どうして自分を家の場所を訊ねなかったのだろう。手探り足まかせでたどり着けるとでも、、、冗談じゃないわ、わたしが持ち合わせていることなんてミミズの目より小さい、つまりないに等しいってわけです。
あわてふためきましたとも。狂乱の晴れ舞台が眼前にせり上がってきた。意地や体裁の密かな手伝けを借り、かけがえのない現実をあきらめでまるめこんだ自分を直ぐさま攻撃した。ふたりはもういない、めぐりあいは可能なのか。手のひらはじっとりぬめり、額からはとって付けたような冷や汗が吹き出した。
焦燥はキリキリと突き刺す加減から勢い、ハンマーを振りかざされているおののきに移行していったわ。反面、健気にも幽霊としての仮想めいた開き直りがこころの底辺をミミズみたいに這っていたの。
「やあミミズくん、さっきはごめん。皮肉ったりして」
実際胸もとが微かにムズムズしていたのね。
閃光が発した。制服の内ポケットに手を差し入れると、わあ、ありました、ありました、ちゃんと携帯していたんですね。目覚め人の登録証、これがある限りわたしは見捨てられたりしない。配給制でしょう、必ず現れるわ、白馬の王子さまが。そしてわたしは無事にお家へたどれる。
なまずおじさんはこう言っていた。
「風と風車にように」って。とすれば「花に花車のたとえもあるさ、はなやかだけが人生さ」ときたもんだ。