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美の特攻隊

てのひら小説

夢の記譜法 〜 三島由紀夫とジャン・ジュネ

夢見のもたらす残像に、奇妙なまでの郷愁がたなびいているのは、いつものことであって、ある種、哀切な感情が大きく内包されたままこちら側に、決して乱雑でも無謀でもなく、まるで風の便りであるかのようにそっと運ばれてくるのも、日常と呼び習わされる中にあり見失い勝ちだけれど、やはりそれは奇跡の瞬間だと思えて仕方ない。

 

日々の過ぎ去りを確認するまなざしの裏側で、我々はそういった心身のすり替わりを切実に願っているではないか。

 

悪夢によって地底のあるいは異界からの強烈な突風に煽られるようにして、唐突でしかも不協和音に苛まれつつ覚醒を強いられるひとこまにおいてさえ、やはりその未分化な情況をよく飲み込めないままに圧倒的危機状態を甘受している。

というのも意識の黎明に恐ろしく判断が下され、残像からの脱出(ここでは仮にそう呼称しよう、誕生と呼ぶには大風呂敷を敷いてしまうから)を感じ取り、すでに暗黒の光景は絶対的に後方に位置し、前景が目映い突破口として脳裏を過ったとしても、目覚めへのファンファーレに胸を撫で下ろすほど単純な気分に支配されてはいない。

むしろ寸秒前のあの悪夢こそ偉大なる物語なのであり、我々は自ずからそれを希求してやまないのである。

 

心底から不快なもの、恐怖をもたらすものを避けたいのならば、ホラー映画もサスペンス劇場も、さらには伝説神話にも噂話にさえ一切心開くべきではなかろう。

 

「願わくば忘れ形見の生みの親をさらに痛めつける美しい物語を書きつづる力が私に授けられますように」

 

と、聖なる暗黒司祭の宿命に陶酔したジャン・ジュネのこの一節ほど、説得ある言葉をわたしは知らない。

 

そして、物語を解体する為に全面的に行動へと地滑りのように転身していった三島由紀夫の内部革命(もはや伝説と化した影響力が波及しているが故に、神格の様相で燦然ときらめこうとも、彼以外は幻惑された傍観者にすぎない。そういう意味で決して外部革命、ましてや世界の変革など及びもつかぬ。至上の恍惚者は三島本人だから)に極めて相似点を見いだす。

 

方や逸脱する境界線を綿密になぞってみせる筆致をもって、方や境界を観念で構築する修辞をもって。

 

ジュネがヒトラーを分身の如く自在に操り(逆もあるだろう、すなわち降神に征服された肉塊として)三島が天皇への遠い憧憬を抱いたがゆえ、春の雪や憂国などの作品に、そして理念としての天皇制に急進的に近づいていった焦燥。

小説を締めくくるモチベーションとして、常にわたしにも焦燥が必要である。

とはいえ、何も刺々しい感覚が喉元に流れ降りるような、神経が逆なでされるような、奇怪な妄念など動員しなくてもいい。

ましてや天才ふたりのみたいな宿命も大義も必要でないし、はなからそのような壮大で強力な磁場など持ち合わせてはいない。

 

ただ、わたしが表現してみたかったのは、眠りの最中にも鼓動が絶え間ないように、呼吸がこれからも障害なく意識なく永続していくように、そうまるで飼い犬の名を呼べば何のためらいもなく、わたしのもとに駆け寄ってくるあの無垢なる情景に似て、それは今は亡き友の想いでがこれからもずっと私の心の中から逃げ出すことがないのと一緒で、、、甘美な暗黒と呼ばれるあの摩訶不思議な領域を、かいま見たい好奇にそそのかされるからである。

 

最も知られていない場所は実はすぐそこに、足下近くに存在しているような気がしてならない。

絶え間ない時間の流れと寄り添うが如くに判じてしまう物事の連鎖と、そこに時折つむじ風にように発生する断絶の予感。

物語はそんないびつな螺旋を描く術しか持ち得ないのだろうか。

 

どこまで行っても単調な風景が連なる死のモノローグを好むほど酔狂でもあるまい、さあ、それならばめまいのひとつやふたつは甘んじて受けよう、今度は螺旋階段を一気に駆け上がってみるのだ。

そして旋風が誘う中心点に目を凝らしてみれば、夢の中へはもはやこちら側から正々堂々と、その門口を広げたことになるではないか。