美の特攻隊

てのひら小説

青春怪談ぬま少女〜9

コンパスの矢は精確な位置をしめしている。
目的地をさとす使命を担ってるわりには、小さな手のひらにおさまってしまう頼り気のない丸みと軽さだった。けどその軽さがわたしの足付きをハラハラさせ、緊張にはばまれながらも優美で不遜な意識へと先走りさせてくれたのでしょう。
未知なる世界への跳躍、振り返るまでもないありありとした現実、しかし現実と呼んでいいものやらとまどいは隠しきれない。恐る恐るの気持ちは急上昇する気流へ乗りこむしかなかったわ。眼下にひろがる地平に冷ややかなまなざしを投げかけながら。
わたしは水底を歩いている。閑散とした見晴らしです。似たような水草がまばらに目につくだけで、壊れた腕時計が放棄した通りのほの明るさに支配されていた。止まった時刻こそわたしの死、しかしながら幽霊意識の目覚めは夜の漆黒だけに塗りつぶされてはいない。疑ってみたくなるものですね。待望の民家がぼんやりと現れたというのに、焦点を結ぼうと努める意欲自体を。
察してください、喜びは素直さにぎこちなく接してしまうのです。でも瞬く間だった。わたしの家はこじんまりとした方斜面の平坦な屋根をもつ昭和モダン風な造りでした。努めた意欲が空回りした甲斐はあったと思う。被われない意識は瞬時にして我が家を愛でていたのですね。面倒でもこんな摩擦が確固とした目線として成り立っていく。
浮き足だっていたのでしょうか、でも足取りはいくぶん慎重だったような気がします。期待していたプレゼントをひも解く気分に似てね。だって破顔は絶対しまりない下がりでしかなく思われたし、誰彼にというわけでもなかったけど、愉しみをゴムひもみたいに緩ませている感覚を理解して欲しい。これって屁理屈じゃないわよ。

定まりきらないまま門前まで歩み寄ったとき、はじめて気後れしたの。不快な気後れなんかじゃなかった、決意を抱きしめたと同時にこぼれ落ちるためらい。愁いの再確認かしら。

ともあれ、新築の家を訪問する背筋の張り方は間違っていなかったでしょうし、こころのなかよりもからだの汚れを感じとってしまった。
「なかには誰もいないよね」
懸念とも心積もりともはかれない手つきでドアを開いたの、ええ、もちろんゆっくりと、あたかも潜水艦のハッチを押し開けられる慎重さを想像しながら。
まったく予想外だったわ、と口にしたならいくらかの欺瞞がまじっていたでしょう。コンパスはわたしの内奥まで探り当てていた。
「どうもはじめまして。わたくし家守りのヤモリタマミと申します。臨時の家政婦みたいな者です」

どう見たってわたしより年長の、だけどどことなく幼げな笑顔が初々しい女性がドアの向こうでたたずんでいる。一歩退きかけたのは本当よ、それくらいの反応は許されてしかるべきだと役者根性みたいな振る舞いで応じたの。うっすらした打算も兼ねていたわ、その方が質問の煩わしさを回避できる、つまりですね、相手から名のったのだから、それなりの事情を落ち着き聞きいれたかった。
「部屋の掃除と設備の点検、それに食料も補充しておきました。すぐお風呂へ入れますし、ベッドにも横になれます。食事は今日の分だけは用意させてもらいましたので」
直感は的中ね。なかなか調子の良い滑り出しではないですか。すっかり安堵を覚えてしまったわたしはことさらにヤモリタマミさんの容貌をしげしげ眺めることなく、こう言ったわ。
「ありがとうございます。助かりました。では早速部屋を案内して下さい」と。
如才のない返事を受けとめながら、今までの曖昧で不透明で、よりどころのない、しわくちゃなシーツがパリッと張られたような清々しさを感じ、あまつさえ純白の密度が濃さを増して、大方の不安は消し飛んでしまった。とりあえずだけど。
こうなったら本来自らあちこち足を踏み入れるべき問題はゆるやかに据え置き、家守りのこのひとを土台にして有意義な時間と共存していこう、なんて出世頭か独裁者みたいな勝手な不惑が羽ばたきだしたわ。
感謝の念をあたりまえとしてくみ取っている自分にやましさを少しは感じていたけど、置かれた情況と行く末を照らし合わせてみれば、囚人のわがままが容認されていると思えていたの。独裁者のそれを横取りしたように。
それなりに心地よさそうな居間、なるほどと感心してしまったしんみりした寝室、窮屈なのか相応なのかよく分からない勉強部屋、そして機能的で素朴な風呂場とトイレ、まだあった、くらがりを欲してやまない納戸と寂しさを見せつけるにもってこいの小さなベランダ、ヤモリさんの実直で的確な案内を受けながら、その実ぼんやりとしていた。
そして気づいたときにはすでに遅く、肝心の事情をあたえてもらっていない不始末にいたったというわけ。家守り人はさっさと所用を片付けた手際よさを誇るでもなし、きわめて良質な事務的態度でわたしのもとから立ち去ろうとしていたわ。嫌みなんか微塵もないだけに問いかけの言葉がつかえて出てこない。
「それではわたくしこれで。学校の方から近いうちに通達がありますからその旨にしたがって下さい」
くるりと反転する勢いでないにしろ、もう背を向けたに等しかった。その所作にすがる気持ちは部屋中の窓をすべて開けたことも手伝って、さわやかな風に取り巻かれ、なおのこと詰問めいた口ぶりは抑制されたのよ。
「ではお元気で」
「どうも」
腑抜けた声色に我ながら唖然としてしまいました。
取り急いだつもりじゃなかったのに、ことはうまく運ばないものね。結局なにも聞き出せず仕舞い。やはりどうこうあれ慢心はいけません。決意の浅さを知らされたというか、べつに必死の形相でもなかったから、まあいいかって開き直ってしまいました。またまたへたり込んだ、いえいえ、居間にあるべくして据え置かれたソファに深々と腰をおろしていた。
やっぱりひとりだ。いやいつもひとりだよ。けど何者かの眼はどこかで光っている。この定理にまとわれている限り、わたしは奮い立つことができそうです。そして驚愕すべき事実を発見しました。錯覚だろうが、たぶらかしだろうが関係ありません。しっかり感知した現象ですから。

風とともに陽光が窓から射しています。お日様ですね。水底の感覚は霧散し、沼の景観でもありません。ここは地上と寸分も変わらない大地だったのです。奇跡なの、確かに動揺しながら窓辺へ寄り、深呼吸してみると奇跡らしさが実感された。仕掛けも驚きのうちですから。
ただ、わたしは沼底の世界から見渡せば見渡すほどに牧歌的な土地に立つ家に住み着いたという恩恵をさずかった、天地が逆さまになろうがこの歓びは否定できません。あっ、早くも逆さまになってますが。
さてと、次は沼高校とやらからの通知を待つ。これだけ世界が大変貌を遂げたにもかかわらず沼ってところが引っかかるけど、ふと唱歌の一節が呼び起こされ、思わず口ずさんでしまいました。
「手のひらを太陽に透かしてみれば、、、」
さらなる展望を夢みましょう。

青春怪談ぬま少女〜8

悦ばしき知識ですね。ミミズくん、きみのお陰だよ。
「付随するもの」
そうか、あれはすでに認識されたことだったんだ。ときおりよぎるランダムな語句を見捨ててはいけません。わたし自身見捨てられずにすみましたから。
ともあれ、なかなか立派な革張りの二つ折りの登録証を取り出しつぶさに調べてみますと、緑色の若々しく生き生きとした苔の色合いでした。
これはなるほど沼によく似合います。ただ読み上げるのが面倒なくらいの数字がびっしり記載されているばかり、あっ、これは見開きの方ですね。手帳ふうの裏表に記号すら見当たりません。顔写真は張りつけてられてない。
名前はと、ありましたよ一番下に、、、えっ、志呉由玲、シゴユレイ、、、これは源氏名でしょうか。ふざけた姓名じゃないですか、わたしひょっとしてお馬鹿な芸能活動とか行なっていたのかしら。それに縁起もよくないわ。そのうちはっと思いつきました。幽霊にふさわしい新たな名前をつけられたんだって。おそらく生前は異なっていたでしょう。どうあがいてみたところで沼の支配人の無粋なはからいを軽く笑い飛ばすくらいしか能はありませんでした。
それからもう一行、沼校生11年(葉魔高校2年没)
絶句、、、永遠の女子高生っていうのは静謐な気品に守護されており、香しい雰囲気を生み出していて、若さゆえの失態は現世に取り残され、ここでは美意識と協調した仕草が瑞々しくよみがえるばかりで、かつて放たれていた青臭いだけの色香と桃色的な態度は昇華されていると夢想していました。見るからに天使と呼ばせるだけの威厳さえ身にまとってね。
それがなによ、沼校生11年、まるでどぶの匂いとまじりあって漂ってきそうなうらぶれた中年女の酒くさい吐息の化身じゃない。醜い妖怪だわ、ひどいひどいわ、まったく。
あのね、沼も11年という歳月もすでに了解済みだからかまわないの、それより高校を11年っていうのが耐えられない、じゃあ来年は12年生なわけ、永遠だから卒業できませんよね。わあっ、50年生とか100年生なんて考えただけでめまいがする。
絶対に妖怪です。美しい幽霊じゃない。待てよ、容姿は変わらないんでした。わああ、でも嫌よ、中身はおばちゃん、絶対おばあちゃんになってる。

お家へたどり着くまえにこの騒ぎでしたから気楽なものかも知れません。とりあえず永遠の女子校生の外面だけをよりどころとし、内面の鈍化、神経の図太さ等の荒廃は心がけ次第、精進あるのみだと強く言い聞かせることで手打ちにしました。
登録証が傷んでしまいそうなくらい握りしめていたのは、もう肩書きではなく来るべきお迎えを待ちわびているじれったさによる力みだったみたい。
目覚めの意識とともに話し声が聞こえたなんて出来すぎでしょう。わたしは常に見守られている。悪く言えば監視されているって意味だけど、ひとりぼっちに比べれば断然ましに決まっている。どうやら敵意とか殺意はなさそうですし、殺意とか人には通じないから怖いものは孤独に尽きるわ。
ところで目覚めに立ち会ってくれたひとがよく思い出せません。とても親切にされたような気はするんだけど、顔かたちが浮かんでこないのです。門番だったのはまちがいなさそうで最初に出会ったというふうな印象はある。それより先の細やかないきさつは忘れてしまった夢と同じでまったくつかみとれない。しかし門番が存在したのなら、今度はこの登録証を検分にしに誰かがわたしのもとへやってくると思うの。とにかくあまり焦らずこころして待つべきね。

「お腹へったなあ」
温かいスープの湯気と香ばしい匂いはすぐそこにあった。
内ポケットから大事なものが出てきたようにと、他のポッケも探ってみたんだけど、胸にボールペンが一本はさまっていただけであとは空っぽでした。
ああ、つまらない、グリコアーモンドチョコレート食べたいなあ。体温でかなり溶け出したやつ、えっ、なんでそんなこと、、、が、すぐに途切れた。まるで針先にかかった魚がみぎわで外れてしまうように。
とは言っても魚なんか泳いでないよ、ああ、イカの刺身に大葉のせたの食べたい、アジも美味しいよね、味がいいからアジっていうんだとさ。ほっけの開きを始めて食べたとき感動したわ。
これらの記憶は一体どこから湧いてくるんだろう、海が連想されるから、単にお腹がすいているからなの。それにわたし感じている、ここは沼なんかじゃない、幽霊だから水を感じないのかも知れないけど。
だとしてやはりおかしい、具体的にどこがどうのってほじくってもすぐに行き詰まってしまうので、よく言い表わせないけど、怪訝な雰囲気が立ちこめているわ。
待ち人は待てど暮らせど影すらちらつかせはしなかった。空腹は段々と募りだした不安に圧迫され、ついに大声を張り上げてしまったの。

「誰かいるんでしょう、だったら出て早くきてよ!永遠の女子高生は気が短いの」

水底の静けさをこれほど不気味に感じた試しはない。
ところどころにやる気をなくしたふうな水草がゆらめいている。見ようによっては猫の持つ戯れめいた動きにも映り、ほんのちいさな気泡が見逃して欲しそうな様子で浮上しては消えてしまう。久遠の光景、わたしのどこかに同調している。
そのときだったわ。あまりにゆったりした代わり映えしないさなかに見いだした。そう気泡よ、注視すればわたしを取り囲む具合で、もっと正しく言えば、時計まわりの要領で気泡が逃げ去っているよううかがえる。もとの目線を定置とし、ぐるりと首をまわしながら水草を追いかけたわ。何度か試みて定置に生える水草の位置を秒針の12時にたとえた。ゆっくりかぶりを動かしていくとそのすぐ横から断続的に大きな、といっても豆粒くらいだけど、ぼこぼこって音が微妙に伝わりそうな気泡が発生している。
「11時」
ピンときたの。11年よ、すぐに歩み寄ると、砂底にカレイがまぎれるような煙めいた異変が認められた。何かが動いている。が、動物的な本能を発揮することなく、その場所から遠のこうとはしない。こうなったら手づかみしてやる。
驚いたわ、右手できつく握ったときの感触はまず、そしてそれが矢印一方向しか与えられてないコンパスであったことに目を見張った。勘なんて冴えるよりか先んじてあるべきものにたどり着くだけよ、なんて豪語したいくらだった。
コンパスが案内役だったわけ。ほら、スイスイよ、わたしの歩調を読み取るかのごとく矢印はクルクルと生き物みたいに知恵者を演じてくれるわ。もはやどれだけ歩かされようとも苦にならない、ならないどころか、ウキウキ気分の足取りよ。
そうね、お腹がまたグーって鳴りだしたけど一抹の憂慮は拭えきれなかったわ。随分まわりくどいうえ、とことん無人でアプローチしてくる、っていう不穏な謎めきに。
かなりの時間が過ぎたと思う。
ええ腕時計はあの時刻をさしたままだったし、例にによってあれこれ意識のざわめきと感情の色彩が道のりをほどよく狂わせた。それでよかったのよ、確信はあった。無為だとしてもかまわない。そもそも無為と仮定する性根のほうが弱音だわ。
門番にコンパス、自分の家、どこから見ても納得のいく冒険よ。とはいえそろそろ到着してもいいんじゃないの、試練ならもう十分、悪ふざけならここらでお開き、道行きでの悶々とした気持ちは端折らせてもらいますね。
ではいよいよ記念すべき日のことを語りましょう。お待ちかねの様子でした、はい、見知らぬ住人がです。

青春怪談ぬま少女〜7

「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生さ。だからよくお聞きなさい。もう会うことはないのだから。あんたが家へ向って歩き出し、途中で忘れものをした素振りでここに戻ろうともそれはあり得ないと言えば、どうかな。奇妙に聞こえるだろうか」
なまずおじさんの話し方に刺を感じるのは否定できなかった。
奇妙という絡まりとは別に、どこかしら不穏な秘密が薄笑いを浮かべているようで、気色が悪いよりか、突き放されている弱みが影法師になってじっと佇んでいる思いがし、こわばってしまったの。
それは当然の成りゆきなんだろうけど、覚醒なのか生まれ変わりなのか、うまくいけば結構ありがたい思惑が肩すかしをくったのだから、わたしの怯えが引き起こした、そうつまり期待はずれってことになるわね。この期におよんで今さらって非難されても仕方ないわ、目覚めからあるいは誕生からさほど年月は経っていない。
むろん扉のなかの時間は差し引いてよ。朦朧とした意識なんてときに即すべきじゃない。いかにも現実主義者の意見で呆れてるかな、でもそうなんだからどうしようもない。で、現実の話しに立ち返った。

「ええ、よく分かりませんが、すべて自意識が織りなしているふうな怖れを感じています。そしてまったく反対とも」
わたしの口調は決然としていない。が、すでに質問に切り込み、指先程度にすぎないけど思いあたる節があった。無駄口はひかえよう。
「多くは語るまい。あんたの聞きたいことはそれほど込み入っておらんしな。わしらふたりはいわば門番なんじゃ。そう沼の門番、あんた専属の、、、だから見送ったらそれで務めはおしまいになる。
見聞きした事ごとは記憶されるだろう、しかしわしらの存在は急激に薄れ、やがてあんたのあたまの中から消えてなくなるよ。ちょうど、ひらがなカタカナを習ったときの光景を大半の者が忘れ去ってしまっているようにな。
極まれに当時の先生の容姿や教室に差し入る陽光の加減なんぞ覚えていても、写真や映像を持ち込まなくてはかなりあやふやだ。いや、あやふやがいけないんじゃなく、そういう宿命だってことさ。
どうしてわしらを消し去らなければならないかと言えば、ほれこのなまずとカエルの顔に障りがあるってことだ。なら普通の人間の面差しを装っていれば問題なかったろうと考えるかもな、もっともだよ。とにかくここは沼だ、そしてあんたは誰かに殺され沈んだ、魔界らしさを最優先しない限り覚醒どころか狂乱してしまいそのまま廃人か、眠りかのどちらかしかなかったろうよ。
見世物小屋めいた幽霊屋敷にこそ意義がある。そこでは恐怖を買うわけだからな。非常に前向きじゃないか、すすんで負の世界に分け入ろうとする。
さあ、これから先はあんた自身で探りなさい。重み自体にうんざりはしておらんだろ、生きていたときだってそれなりに背負うものはあったはずじゃ。しかし比較なぞしてはいけないよ、大人は大人の子供には子供の領分がある。
分別やら打算やら理想やら、ついてまわる意識とのせめぎ合いはそれぞれの器にあんがい見合っておるもんだ。みどろ沼はたしかにうかがい知れぬ領域といえよう、門番を配してあるくらいだから。あんたの予期した通りだよ。めぐりあいについては確率もあるだろうが、ようはあんたの奮起しだいだと言っておく。もう理解できているね、どんなに入り組んだ世界でも、見通しの利かない空間でも、所詮はあんたのあたまがキャッチするしかないんだ。意識は現象であり、現象もまた意識じゃ。少なくともあんたひとりだけなんて空想するほうが難しい」

最後の言葉だけ語気を強めたのは別れの悲しみに執着してしまいそうなわたしを見抜いていたからに違いない。
かなり緊張を強いられる場面だったにもかかわらず、素直に首を下げた自分がいて、つまりもうひとりのわたしが沈着なまなざしで見守っているふうな感覚に被われていた。不意にこんな言葉がよぎった。
「付随するもの」
今は深く掘り下げようとはしないつもり、だって付いてくるんでしょ、待ってるわよ。急いてはいけません。とはいえ、この現状どこか急いてますね。番人から見送られ、わたしは家へと旅立つ。まさか縮図ではないでしょう、幽霊の世界が見世物小屋だしたら、それはありえそうだけど。
こうしてわたしは二度と会うことのないなまずとカエルの両人の顔をしみじみと見つめ、こらえきれない涙をためきれず、お礼の言葉は鼻水まじりで、それでも深々と垂れたあたまに去来するのは悲哀ばかりで雑念は退けられ、真面目に笑顔なんかつくってみた。
ふたりの表情はまるでよく磨かれた鏡みたいな光沢があったわ。映りこむものはかなり美化されていたでしょうけど。
もう聞きたいことはないと言えば嘘になるけども、消えゆくふたりに対しおんぶに抱っこはあり得ない。あきらめを際立たせるのは新たな目標を打ち立てた瞬間よ。
「いずれとは思っていたけどわたしを殺した犯人を探し出す。そのためには幽霊だって魔物にだってなりきろう、廃人は遠慮しとく」
胸のなかにそんな誓いを轟かせていた矢先、ごまかしのない瞬間が早くもやってきた。
向き合ったふたりの相好が薄れている。なまずおじさんのきつく結んだ厚い口許がかすんでゆく、カエルおばさんの下がりきった目尻からこぼれているしずくが消えてゆく、ああ、声にならない焦りは本物、だが手だてなんかあるわけないし、これが運命と告げられたばかりだ。
「ちょっと待ってお願い、、、」
それが精一杯のどから絞りだした台詞だったわ。
遅い、もう遅い、現象をなぞるアナウンサーの気持ちが少しだけ思い描けた。悲痛な叫びなんかじゃない、本当に悲惨で痛ましいときこそ、あきらめが霧雨のように降り注いでくる。はなからそう仕立てられている調子でわたしは次第に声を失い、涙を涸らした。
やがてこんなふうにも解釈された。もしまったくの説明もなくふたりに消えられたら、それこそ狂騒を演じ、自堕落な感情に圧しられていたに違いない。ふたりはとても真摯に門番としての役割を果たしてくれたからこそ、自分は流れる感情とともにいることができた。時間という途方もないエネルギーを供給され、まずまずの惜別に向き合えたの。
泣いた子供がすぐ笑う、なんてね、まさか、しばらく影すら見いだせないその場にへたり込んでいたわ。こんなときは都合よく流れを意識しなくなる。夕陽なんか照りつけてくれれば雰囲気もいいし、気分も洗われるのにね。残念ながら沼は明るみをわずかだけ保ったままで乳白色によどんでいた。

「さてと、お家に行こうか」
戦慄が走る瞬間って若干の猶予が残されている。
なんでこんな細かいこと言い出すのかって、それはね、足なり腕なり骨ばった箇所を硬いところへぶつけるでしょ、わかりますよね、すぐに痛みは直撃しません、一秒くらいかな、そのあとやってくるのです。たまりません。
「誰か助けて」
そう一声あげるくらいの猶予があったということ。うかつだったわ、現象学の基礎みたいな問いかけなんかより、そんな高邁な抽象論より、どうして自分を家の場所を訊ねなかったのだろう。手探り足まかせでたどり着けるとでも、、、冗談じゃないわ、わたしが持ち合わせていることなんてミミズの目より小さい、つまりないに等しいってわけです。
あわてふためきましたとも。狂乱の晴れ舞台が眼前にせり上がってきた。意地や体裁の密かな手伝けを借り、かけがえのない現実をあきらめでまるめこんだ自分を直ぐさま攻撃した。ふたりはもういない、めぐりあいは可能なのか。手のひらはじっとりぬめり、額からはとって付けたような冷や汗が吹き出した。
焦燥はキリキリと突き刺す加減から勢い、ハンマーを振りかざされているおののきに移行していったわ。反面、健気にも幽霊としての仮想めいた開き直りがこころの底辺をミミズみたいに這っていたの。
「やあミミズくん、さっきはごめん。皮肉ったりして」
実際胸もとが微かにムズムズしていたのね。
閃光が発した。制服の内ポケットに手を差し入れると、わあ、ありました、ありました、ちゃんと携帯していたんですね。目覚め人の登録証、これがある限りわたしは見捨てられたりしない。配給制でしょう、必ず現れるわ、白馬の王子さまが。そしてわたしは無事にお家へたどれる。
なまずおじさんはこう言っていた。
「風と風車にように」って。とすれば「花に花車のたとえもあるさ、はなやかだけが人生さ」ときたもんだ。

青春怪談ぬま少女〜6

とりあえず客室になるのかな、なんか物置き部屋って呼んだほうがしっくりするようだけど、気遣いなのかひがみなのかわからなさに我ながら嫌気がさして、しきりに恐縮がっていたカエルおばさんの面持ちがまぶたの裏にしみこんだころにはもう意識は薄らいでいたわ。
ベッドのきしみも古めかしいのになぜかしら気分がよかったの。
眠り落ちる寸前の光景は奇特なことにデジタル時計が点滅する様だった。わたしの記憶は残存している、今は散らばり色あせているけれども、必ず焦点で結ばれるときがやってくるような気がしてならない。
それは逆効果だって聞かされたけど、でも未練や執着のみなもとですからね。たしかに呼び覚ます行為自体に難があるのはうなずけるし、幽霊の本義からはずれてしまうって笑うに、、、いや泣くか、泣くに泣けない定めが立ちふさがっていますよ。ところが眠りのさなかにかいま見る情景が生前のあり様かも知れないなんて、好奇心どころか本能までつきあげてくる言い方は耳にこびりついて仕方ありませんよね。
もし本当だとすれば睡眠中はまさに此岸への架け橋になる。泣き笑いです、うれし泣きです、ならいっそのこともう一度死んだらよみがえるのでしょうか。いやいや、そうは問屋はおろさないでしょう、幽霊は不滅みたいですから。
見世物とか飼いならされている境遇とかに合点はいかないけど、背後に計り知れない意志がひかえているとしたら、それはそれで見ものにちがいありません。はい、見世物から立場を逆転しましょう、そうしましょう、なんて考えに酔っているうち、睡魔はそつなく役割を果たしてくれたみたい。

はっと目覚めた。瞬時に脳裡をよぎっていったのはデジタルじゃなくチクタク時計の秒針だった。ほっとしたわ、沼暦10年はもうたくさんですから。
あたりをみまわせばベッドの脇には花柄のカーテンが閉じており、花模様が生き生きと浮き立たせたぬくもりが目に安らぎをあたえてくれている。これってお日様、、、そのとき天啓を授かったみたいに全身がびりびりしてしまい、縮んだのか開いたのかよくわからない瞳孔は不可避的にカーテンのとある一点を凝視することで、思考をなめらかにたぐり寄せるすべを得たわけです。ちょうど鍵穴と向き合ったときに感じる絶大なる期待ですね。
こういうふうな意想でした。溶液なんだ、この沼はある溶液で充たされているが、実際にはなにも違和感が生じないところからほぼ気体に近い、もっと勘ぐればあえて水棲動物的な錯覚を引き起こすためにこんな仕掛けが設けられているでは。
どうして早く理解しなかったのだろう、沼なら上方へと泳ぎまわれるはずじゃない。ついつい目先の事象に圧倒されっぱなしで冷静な判断の鍵を忘れてしまっていた。
台所の火もパイプから煙も出るわけです。第一に魚をまったく見かけない。そりゃカエルとなまずの住人とは出会いましたけど他には誰のすがたもありません。まだまだ日が浅いからと考えるのが無難なのでしょうけれど、これは由々しき問題です。さっそく訊ねなければと、環境から住民問題まで一気に飛躍したところまではよかったのでしたが、今度は天啓とは正反対の感覚にうしろからしがみつかれました。ぞくぞくした寒気とともに。

夢を見た。そうなんです、華々しい霊界の一夜にして夢はわたしを抱擁してくれたの。で、どんな内容だったかといえば、これがどうも抽象的すぎてうまく言葉にできない。でもつたなくとも思い返さなければ。
夜よ、ちいさな灯火がいくつか穴を開けたみたいな感じで周囲に馴染もうとしていたから。あんな物悲しさは夜に決まっている。夢中っていうけどあんがい平然とした心持ちだったし、天空を仰いだりしない、きょろきょろもしない、まさか思索に耽っているとは思えないけど、ぼんやりした心境は微風に揺れる灯火に意を介さなかった。つまり当然のごとく夜景へとけこんでいたのでしょうね。それだけしか思いだせません。
しかし収穫はありましたよ。なまず家での眠りはおそらく夜でしょう、お昼寝、とんでもありません、いくらわたしが疲れているからってそんな心配りでふたりも寝室に入ったとは、、、いえ思い過ごしではなく実に自然な雰囲気で沼底に夜は訪れていた。
それさえ誰かの目論みだとしたらもうお手上げです。この朝日も作り物になります。だからこの辺で妥協するのが賢明だと思った。懐疑にきりはない、とりあえず自分のまなざしの及ぶ範囲、感ずるべくして得たものを土台にして切りだすしか方法がないもの。それらが臆見によってもたらされているとしても、やはりある程度の質感が重視されるように、肌に触れる感覚に従ってみるしかありませんよね。
沼と思い込んでいた場所がそうでないという確証を持ち始めたなら、あとは可能な限り予断と相談しつつ、まあ焦るもよし、のんびりもよしとにかく前に踏み出さなければ答えはけっして導かれない。もっとも猶予なんてひかえてくれているのかそれこそ冒険じみてますけど。
怖れだてありましたとも、ふっと手軽な扉に入りこんでしまったら10年ですからたまったものじゃないわ。いくら不滅とか永遠なんて諭されようが、時間は時間よ。わりとまともな思考でしょ。ええ態度のことよ、投げやりじゃない、それにふて腐れてはないし、臆病小心は仕方ないとして身構えは整えているつもり。殺害されたって事実には正直なところ段々と悔しさが募ってきたけど、はからずも意識は明滅してますからね、少なくともカーテン越しの明かりと、夜の夢をつかみとっているわ。恨みはいつかはらせればはらすことにしておこう。

「おはよう」
「おはようございます」
朝の挨拶は気持ちのいいものですね。朝食もまた野菜ごろごろのスープでした。パイプの煙も健在です。
「夢はみたかね」
まるで朝刊は読み終えたのかって問うているような口調でなまずおじさんが言いました。
「はい、夢の一夜でした。ぼんやりしてよく覚えてないのですが」
「そうかい、最初はそんなもんだ」
「えっ、ということは次第に明確になるって意味なんでしょうか」
「すでにそうなりつつあるじゃないか」
「あのう、どういう、、、」
「眠りつく前に考えごとしなかったかい、それと目覚めを疑ってみようとした」
「よくお分かりで」
わたしは誘導尋問の案配で言葉をそよがせるしかなかった。
「扉の奥も決して悪い時間ではない。それはあんたが一番心得ておるはずじゃ。無念が先行しているのはその確たる証し、だいじょうぶ信じる信じないではなく、見つめるか見つめないかなんだ。あんたは沼を見渡した、といってもごく一部分だがね。あとは向こう側からやってくるよ、いやいや白馬に乗った王子様がさっそうと駆けてくるのではなくて、来訪とまなざしが結びつくんだよ。風と風車のようにな」
「はあ」
「それから生前意識の到来は必ずしも禁物でない、あくまで道のりを悪くするだけということさ。あんたは子供じゃない、ひとりで顔も洗えるし、食事もできる、言葉も喋れる、口答えだってその気になればできる。なるだけ早く自分の家に向かいなさい」
「ええ」
力強い声にはならなかったけど、誰かにすがりつきたい思いは軽減されていた。
「二三のことなら質問に答えよう。あまり教え過ぎるとかえって仇になるからな」
その意味合いはそれとなくかみしめることが可能だった。むしろ自分から望むべきだったわ。では絞りこまなくては、、、なにしろ不思議の世界ですよ、死後なんですからね、初体験のうえ、現実という馬車に引かれるれている確信すらなく、色々聞きたい知りたいのは関の山、苦慮するより軽やかとまではいかないけど、口笛みたいな問いかけが流れでたの。
「ではお聞きします。ただの幻覚なんかじゃありませんよね。つまり一切が自意識で構築された世界であり、しかも負の重みを背負っている。ふたつめは重みは仕方ないにしろ、この沼は人工的な仕掛けが施されていませんか。昨日おっしゃってましたあの言葉です。もし知らぬ存ぜぬが方便ならそれ以上はけっこうですけど、これから他のひとたちとめぐりあえるのでしょうか。おじさんおばさんだけなんていくらなんでも寂しい、ごめんなさい、こんなにお世話になっておきながら」
「それだけかい」
「これだけです」
わたし少々意地を張ってましたね。あとで後悔しました。
「夢の件はいいんだね」
緩んだ意思はときに余計な緩みを願ったりします。けれども決して自暴自棄な性根に毒されていなかった。
「夢こそが自在と希望だと気がつきましたから、秘密は自分自身で見届けようかと」
「たいへんよい心がけじゃ。精々気張りなさい」
「ありがとうございます」
「さてと、これでわしらともおしまいになる。あんたは自分の住む家へと、そしてふたたび顔を合わせることはない。だからしっかり話しておくよ。だが微に入り細をというふうにはいかない。それは了解してもらえるだろう。永遠と居並ぶはめになりかねん」
「わかりました」
なまずおじさんの表情に永遠なんか似合わない。居並んでいるのは絹のような感触の厳しさと、歯ぎしりしたい優しさだったわ。
それにひきかえ、、、わたしのこころに広がった波紋は緩やかではあったけれど見苦しい線を描いていた。
結局は怨念が支えになっているだけで、口先は見苦しさをごまかすためにあえて節度を生み出そうと躍起になっている。とはいえ、これがきっかけでも別にかまわない。念力に善悪があるのかどうか試してみるのもいいかもしれません。

青春怪談ぬま少女〜5

水底はなるほど水底なのね。
てくてく歩いたつもりでもときおり地に足が着いていないような、浮いた感じがする。そしてカエルおばさんの、
「ほら見えてきたでしょう」
この一声ですっきり背筋が伸びて眼球は遊泳しはじめた。
たしかに建物が見えたわ、ぽつんとした一軒家だけど、荒野を思わせる沼の地平では陽炎のようなゆらめきに守られ、慈しみがにじみだしている。
すぐそばまで来てみるとトレーラーの安定感を備えた平たい箱形の、奇妙といえば奇妙な造りだった。屋内はいたって簡素、寝室は隣の部屋なのだろうか、腰掛けるようすすめられたテーブルの置かれた室内に無駄な装飾は見当たらない。洗い場もすぐ近くに面しており早速なべに火が通される。
ここは水底ではないわ、ちゃんと火が燃えているじゃない。すでに水の手応えからはほとんど解放されていたので、別にあらためて驚くこともなかった。もう空気と同じだもんね。幽霊というよりか半魚人になってしまっのかしら。そのほうが自然に思えてくるのだから慣れってある意味怖いわね。
「はい、たくさん召し上がれ」
想像していたとおり、ムーミン家の食卓とそっくりの料理だった。やや大きめのスープ皿、これ一品。クリームシチューのような淡く暖かな色合いが食欲をそそる。遠慮がちだった気持ちはすっと吹き流され、鈍いひかりをゆったり放っている銀色のスプーンを差し入れたの。おやおや一杯ありますよ、具が。
視界が曇ってきた。湯気のせいかな、違うこの匂い、ひとくちも食べてないのに美味に感心、いや感動してしまっている。ついに涙があふれだした。
「あらあら、どうしたの」
カエルおばさんは口をもぐもぐしながら心配そうな視線を投げかけてくれたわ。
「いえ、うれしくて。いただきます」
あとの模様を説明できないのが残念、だってにんじん、じゃがいも、豆らがごろごろとスプーンで転がせるくらい具沢山なうえ、シチューのとろみで運びこまれる美味しさといったら、それはもう、わたし夢中になって食べてしまったから。
紅茶もいただいた。なまずおじさんはパイプをくわえていたので、思わず吹き出しそうになったわよ。これでシルクハットでも被っていれば、まるでムーミンパパじゃない。
「ごちそうさまでした。わたし幽霊らしくなれたように思います」
「そりゃ、よかったね」
これまでの半年、わたしは眠りついていたのだろうか、何をして何を考えていたという覚えが呼び返せない。間違いないわ、意識がめぐってなかった、めぐっていたとしても微弱すぎて視界は暗幕で閉ざされたまま神経伝達も滞っていたのね。
「血がかよっています。幽霊なのにおかしいでしょうが、そんな感覚がみなぎっています」
「あれと一緒だよ、手足を切断した患者が数年たってもなくした肉体にかゆみや痛みを感じるってやつ」
なまずおじさんの吐き出す煙はもっそりして、さながら小さな雲みたい。
「ではその感覚はまやかしなんでしょうか」
「どっちでもいいんだろう。まやかしでも本物でも」
「そうですね」
たった今の味覚も、と言いかけて言葉を慎んだ。食、住と進んできたんだ。まだほんの入り口にすぎない。ここで疑問をいだくこともないわね。つまり自分から様々な不審をつのるより、その場その場を検証するような冷ややか態度が大事だわ。もちろんつぶさに検分するほどの自信はないけど。
「今夜は泊まっていきなさい。あんたの家は遠い」
紫煙とともに吐き出された言葉に愕然とし、せっかくの血の気が引いていった。
「わたしに家があるのですか」
「そうだとも、あるよ」
「どうしてです。わたし、この沼に家を買った覚えはありませんし、住んだ記憶もないです。だとしたら誰が用意してくれたというのでしょう」
「そうだな、これはきちんと話しておこう。あんたは幽霊として目覚めたんだ。わかるね、死んでしまった人間があたかもよみがえったごとく意識を持っている。そうした者は登録されるんだ。生きている間には住民票が必要とされたよう、ここでは目覚め人は登録証を携えていなくてはならない。お役所が決めているわけじゃないよ、ここは死の世界だ、国家も警察も役人も商売人もいない。すべては恵みのごとく配給される。おっと、どこからかって聞いても無駄だね。わしも知らんのじゃ。しかし最低限のルールはある。幽霊であることをよく自覚する、これさえ守れたら永遠を手にしたに等しい」
応酬するつもりはなかったけど、涙よりたやすく意見が口から飛び出してしまった。
「わたし子供のころから心霊とか神様って信じていませんでした。それなのにこんな事態を受け入れようとしている。悪夢ならお願い早く覚めてほしい、でも現実なら見つめる以外になさそうだから、ものわかりはよくするつもりです。何度も出てきますね、この文句」
そう言ってから紫煙を見送っていた。とても熱い心情で。かなりの合間がたなびいたと思う。判決を言いわたされるような高鳴りが序曲にふさわしいかった。

「神様が世界を作ったのか、どうかはわしの答えられる範疇をゆうに越えている。同様に幽霊という存在を認可している不自然な世界に対してもだ。人間には意志があり生きる希望があり、底知れぬ欲望がある、しかし根源的な目的を勝ち得ないみじめさも同居させては嘆きを忘れることがない。そもそもすべてが偶然であってたんなる確率の問題だとしたらどうする。悲しいかな、人間はそうした無為にはたえきれないんだよ。常にどこかに、遥か彼方に、覗けば覗くほど過去の影しか見えないというのに、ひたすら秘密の鍵穴をこじあけたくて仕方ないだな。秘密なんてないかも知れないのに。
そこで幽霊だ。なぜと問うさきには世界認識と同じく、袋小路につきあたるか、天上崇拝に身をゆだねるしかないだろう。われわれはんだはずなのに意識を持ち歩いているじゃないか。何者かに飼いならされているんじゃないかと考えてみたことがあった。人影こそ表沙汰にしないが、どうやら番人がいて登録証を発行しているのは周知のことなんだ。いいかい、そのうちあんたなりの解釈なり認識が加わればそれでいいんだけど、今は傍観しているのが望ましいよ。あんたに危害をあたえる奴は誰もいないし、文句を言う者もいない」
「じっとしていろって」
「ああ、どうあがいてもこの沼から出るのは不可能なんだ。幽霊を演じるとき以外はな」
「えっ、なんて言いました。わたしたちすでに幽霊ですよね、それをなぜ」
「演じるというのかい。これは憶測の域から脱しえないんだがね、幽霊って希少なんだよ。言っただろ目覚める者もいるが眠り続ける者もいる。死んだ人間が全員幽霊になっていたら収拾つかなくなる。だから化けて出れる、つまり意識を得た者は非常に珍しいんだ。鬼太郎のおやじだって幽霊族の末裔だぞ」
「あのう、それって目玉のおやじのことですか。漫画ですねよ、一緒にしていいんでしょうか」
「そうだとも、別々にする意味合いもないだろう。先見の明があったというわけだ。でだよ、わしらに希少性あるとしてだ、それを管理している、ほら動物園とか水族館を思い出せばいい、大事に大事に育てられ観察されているってことになる。ひょっとしたら見世物になっているかもな。幽霊でも妖怪でもなんでもいいんだよ、珍しいこれが決め手だ」
「半年まえにはそんなこと聞いた試しがないですし、少し飛躍しすぎてませんか」
「じゃあ、この現象をはっきり説明できるのかい。集団催眠あるいはどちらかの幻想としておこうか」
「そんな、わたしにはなにも」
「あんたがあの扉の向こうで考えこんでいる間に、これは言うのをためらっていたんだがね」
「なんなの、かまわないから言ってください」
「沼暦で10年が過ぎた」
「どういうことですか」
「時計はあるんだ、デジタルだよ。おそらく外の世界の時間と流れは変わらない。あんたがいろいろ思索したようにわしだって考えに考えたよ。来る日も来る日もな、ここは苦難こそないが、誰もが倦怠という悪魔に取り憑かれてしまう。あまりいっぺんに話しこむと受けきれないだろう、ひどく疲れた顔色じゃ」
「わかりました。さきは長そうですものね。あわてたりしません。のんびり骨休みでもする気構えでいきます」
「おお、そうかい、それがいい。もうおやすみ、そのまえにもうひとつだけ。わしらは眠っているときにどうやら水上に浮かびあがるそうだよ。睡眠には意識がないけど夢を見ることはあるだろう。もしかしたらそれが外界のすがたかも知れんなあ」
紫煙は掻き消えており、苦渋に満ちたなまずの表情が目のまえにあった。脇のカエルおばさんはとても悲しそうな顔をしていたわ。夢か、出口はあるじゃない。わたしすぐにでも眠りつきたくて仕方なかった。わかるでしょう、このはやる気持ち。