美の特攻隊

てのひら小説

連載小説

投函 〜 あの夏へ 15

小さく、しかし大胆に耳の奥へと吸い込まれた麻希のひとことは、初顔あわせした今夜の時間の流れを一瞬にして固定してしまい、つかみ取れないないままに指先から逃げさってゆく期待を芽生えさせた。そう感じられたのは、予期せぬ僥倖に先んじることで受け入…

投函 〜 あの夏へ 14

麻希と格別に込みいった会話を進ませた記憶もない、数日たってその夜のことを思い返す度にまず狼煙のよう上がってくるのは、くだんの老成を先取した、完熟トマトみたいに鮮やかな内にも酸味を残すことを忘れない、夕陽を彷彿とさせる笑みであった。隣席の香…

投函 〜 あの夏へ 13

麻希や森田らの親しげな会話は、更けゆく夜の気配を招きいれたとでも云うようにして、十分に明るい店内へと忍びよった微風の如く、一層こうして対座している場面を、テーブル上に運ばれている各自の飲み物や料理の並び方を、それとなく意識させる、あの読点…

投函 〜 あの夏へ 12

この季節を感じることは、もうすでにあきらめにも似たやるせなさで上着を脱いでしまっていると云う、そもそも夏着に裏地などと辻褄の合わない道理をあてがいながら、ほどよく袖が抜けていく気楽さと遺憾を途上にて受理する風趣にあった。安閑としているのは…

投函 〜 あの夏へ 11

「ねえ、前にどこかで会ったことあるような気がするんだけど」「そんなはずないさ、純一くんはこのまちに来てから日が浅いし、どうして麻希ちゃんが知ってるわけ」早すぎるのでもなく遅すぎるのでもなくふたり連れが現れると、純一はすでに酔いが全身をまわ…

投函 〜 あの夏へ 10

待ち合わせ場所の公園付近まで自転車を走らせた純一は、夕闇がひろがりだした敷地内を覆うよう茂る木立の影にひとり佇み、携帯を操っている森田の姿を一目で見てとった。「あっ、森田さん早いですね」と自分も時間より早めに来たつもりだったのに以外な先手…

投函 〜 あの夏へ 9

翌朝には初々しい陽光がこのまちすべてに降りそそいだ。もっとも純一は昨夜はなかなか寝つけないく、いつの間にか眠りおちたのかと思えば、うつらうつらと意識がさまよいだし、夢見なのかこちら側での感情のこわばりなのかよく分からないうちに夜明けを迎え…

投函 〜 あの夏へ 8

それから幾日か哀しみに想い馳せることなく、夜気を迎え入れては白々と煩悶を刷くのだったが、そんな虚構のうちに循環している情欲がいつまでも平穏に保てるはずがなかった。ある大雨の晩のこと、地面を叩きつけるような雨脚と樋をつたう激しい水流の為、い…

投函 〜 あの夏へ 7

純一の儀式はこのまち赴いたその夜から再開された。いや、儀式などの形式ばった天井を吹き破った、無礼講による解剖室の祭典と呼んだほうが実質に近い。ならいっそはっきり「自慰」と言えばよいものだが、曲がりなりにも少年には少年の美学が息づいていた。…

投函 〜 あの夏へ 6

純一の舞台は、こうして予想外である朱美の出現によって早々と崩壊しはじめた。もっとも、崩れだしたのは外壁であって、中心部に宿った暗室の天蓋は淡く差しこむ月光の親和に守護されていた。 三好の家で育った朱美は、後日運ばれてきた自分の荷物をひもとい…

投函 〜 あの夏へ 5

想い出のなかに保存されていた朱美のイメージは多少の華飾でくるまれていたのだろうか。それは二十歳そこそこで結婚すると云う初々しさが前置きされていたこともあり、また少年期なかばの、釣り合い人形のように不均衡な安定で起立している目線でしか判じる…

投函 〜 あの夏へ 4

純一のめざめはすぐそこまで近づいていた。このまちで暮らしていることが奇跡なのではなく、このまちそのものが奇跡なのだと、少年のこころに疾風が吹きこみ鮮やかな波紋が大きくひろがって、足もとを潤沢にさせた。この世のなかに息づいている実感をこれほ…

投函 〜 あの夏へ 3

奥手と云えばそうであった、彼女と知りあったのはほんの一ヶ月まえ、まったくの偶然による、しかも指向する自然を背景とした純一にふさわしい出会いだった。生まれて初めて女性の素肌に張りつめた欲情をもって触れたのは、このまちに来てから日数も浅い、空…

投函 〜 あの夏へ 2

あのとき純一は、母が並々ならぬ野心家の一面に近いものを覗き見たに違いないだろうと不遜な推察をしてみた。翌日、今度は父から「これで結着にしよう、おまえの意志は固いんだな」そう問われるままに、「うん、かわりはないよ、とりあえずあのまちに一度行…

投函 〜 あの夏へ 1

賭けは限りなく現実味を帯びて、本人にも自覚されない眼光に付随した牙の先端は、純一の決意を等身大以上に物語っていた。出来る限り必要以上の機器を身のまわりに備えることをは避けようと誓った。車とパソコンはあえて持たないことで、行動範囲は限定され…

恋の十字架〜19 (完結)

冬日の訪れを感じさせる冷え込みにすっかり覆われた夕暮れのひとときは、何もかも萎縮させてしまいそうなよそよしい気配を感じさせる。 が、近づけば遠ざかるのではなく、その逆の様相がぼんやりと漂いだし、見るもの聞くものは肌をかすめてゆく。寂しさが案…

恋の十字架〜18

「葉子は始めて僕のほとばしるものを体の中に受け入れてくれました。そしてそれが、最後のふれ合いになってしまったのです。 肉体同士が大きくうねりをあげて溶けあっていた瞬間、意識は明瞭でありながら妙に覚めた距離感を、、ええ、何か生々しく、歴然と目…

恋の十字架〜17

慣れた身のこなしでで洋服を脱ぎ捨てる。 いつもは戯れの儀式の為たいそう大事に、尾ひれをつけて最上級の賛辞で装飾される営みであるがゆえ、ショーツ脱衣の典礼は裸体にとって最後の供物を捧げだす神聖な瞬間になるはずであった。 女にとってみれば最も羞…

恋の十字架〜16

「どうして僕ではなく、社長だったのか、これが臭いものにふたをし、互いに不可侵をうたって来た証しなのか、、、僕が自覚していた葉子に対する直情に見えて屈折した恋慕は、隠匿するまでもなく、はなから彼女にお見通しだったのです。 結果、苦境のただなか…

恋の十字架〜15

「いつもと違うためらい勝ちな葉子のくちぶりと神妙な態度は、かなり複雑な思惑の到来になりました。 砂塵が突風に煽られて形状を地にとどめないように、すべてを失いかけている葉子の胸のなかと同じく、二度ともとには戻れないというあきらめを、今は自覚す…

恋の十字架〜14

「僕は若かったし、自由奔放な世界のなかに生きていたと感じていました。毎日の会社勤めであくせくしていても、煩わしい人間関係に縛りかけられていたとしてもです。どうしてかって、それは未来という時間がまだまだ前方にひらけていて、余裕たっぷりだった…

恋の十字架〜13

「僕はあのとき平静をとりつくろうとしたのですが、相当動揺していたと思います。葉子がどれくらい涙していたか、とても長かったようにも、ほんのわずかの間だったのかもよく覚えてないくらいですから。 というのもそれから彼女が語りだしたことが、自分の予…

恋の十字架〜12

三階の一番奥、部屋の前にならぶ姿でふたりしてドアを開ける。 実際には清也がややぎこちなく上着の内ポケットから鍵を取り出し、弁当の包み袋とハンドバックを手にした葉子を中へと促した。ふたりしてこの部屋から歓待を受けたのだ、そんな思いがせり出す。…

恋の十字架〜11

会社がある最寄りの地下鉄から二駅先まで運ばれ、続く乗り換え線で十五分くらい揺られ、降り立ったホームの改札から徒歩でわずかの距離に清也のアパートはあった。 これまで葉子と連れ合い電車に乗ったことのなかったのが以外である。この決まりきった路線、…

恋の十字架〜10

「人気のないところがいいわ。二人っきりで話したいの、清也くんのアパートがいい。食事は、、、ごめんね、何か手料理って思うんだけど、そんな馬力ないんだ。それにわたし料理へただし、お弁当でも買って行こうよ」 わずかに苦笑している葉子の目が今にも湿…

恋の十字架〜9

夕暮れの深まりが季節のなかでも減速してゆくある日、営業部と掲げられた社内の入り口付近で、かすかな肌寒さに微妙な安息を覚えながら、外まわりから戻ったばかりの小滝清也は、うしろから自分を名を呼ばれた。 ひかえめな声量だったので一瞬以外に思えたけ…

恋の十字架〜8

もし無感動なまま衝動がわき起こっているのだとしたら、私たちは本能と呼ばれる不可解でとりとめもない奔放な激流のまっただ中に巻き込まれていることになるであろう。しかし、本能が跳躍する際に対して無感動の目配せしか送らないというのは、どこか不自然…

恋の十字架〜7

取り澄ました内心が微かに動揺する葉子の一瞥に、ほくそ笑む清也の微妙な期待が重なりあった。 「へえ、どんな曲かしら、清也くん、まえに音楽あまり聴かないほうだって言ってなかった」 「懐かしのアニメソングやテレビドラマの主題歌なんかは好きだけど、…

恋の十字架〜6

暁光の恩恵に包まれる二人だったが、清也の慢心と不安が入り交じる胸中は時間が反対に進んでいったのか、曖昧でいて忘れがたいあの時刻にとらわれていた。 夕暮れがいつになく間近に迫りくる興奮を、いかにもありふれたうつろいといった心持ちで過ぎやった清…

恋の十字架〜5

清也のしなだれたようにも見えるだらしなさの居住まいは、つまるところ自然発生的な姿態として今ここにあるのだろうか。だとすれば、若さと情熱は素晴らしい均整をもって自分自身を誘導している。 同年の女性にしては手に余るには違いないが、清也なりに葉子…